Spring has gone(四月の記憶)

最近はTwitterに疲れてしまって、つぶやくことをほとんどやめてしまった。笑い事にしていいのか?と思うようなニュースに対して、露悪的な意見にうっすらとユーモアをまぶしただけ(それによってより下品になっている)のような感想ツイートがすごい勢いで拡散されているのをみると、力が抜ける。しかも悪意があるわけではなくて、当事者意識がないからそうやって面白がれるのだ。その観客的なスタンスがしんどい。有意義な情報も多いし、替わるものもないから今後もここから色々と情報や考えを得るのだと思うけど……。

それだけ言っておきながら、その「Twitterで読まれる」ことを過剰に意識していると思う。意識しているけど、意識したくない、というせめぎ合いがあって、考えなしにつぶやくことができないし、疲れるわりに別に誰の目にも留まらない。このブログもそれ以上に読まれていないのだけど、何より自分のために書いている、という意識があるから別に良くて。

だから何か心を動かされる音楽や文章、できごとがあった時はブログに書きたいな、と思うんだけど、どうしても落ち着いて書きたいし、少し時間がかかってしまうから、色々と逃してしまうのが今の課題でもある。

ということで4月後半にあったことを雑感として色々と書きたいのですが、まず音楽でいうとコーチェラのビヨンセである。当日は見逃してしまい、数日後にニコ動で見たのですが、画質がかなり悪いにもかかわらずその迫力は十分に伝わってきて、生で見ていたらどんなに興奮しただろうと思った。実験的なというわけではなく、誰もが熱狂するほどダイナミックでポップ。最高のエンタメでありながら決して消費されないもの。そして歴史を背負い、切り開こうとしている。これができるのは今この人しかいない、ということをやっていると思う。感動してしまって、見た後しばらくは「こんな時ビヨンセならどうするか?」という判断基準で生活をしていた。具体的に何をしたかというと、ジムでいつもより1km多く走ったくらいです。

あとは宇多田ヒカルの「Play A Love Song」と小袋成彬の『分離派の夏』でしょうか。ジャネール・モネイの新作など、今週は聴き込みたいリリースがたくさんあった。『分離派の夏』は全体的にフランク・オーシャンともリンクするインディR&Bっぽさと内省で、ものすごく今の感覚を捉えた一枚だなあと思う。ロンドン、台場、グアム、サンティアゴ茗荷谷などの数々の場所が散りばめられ、歌詞の内容もその街での記憶から学生時代の頃、長い一人暮らしを経た現在のことまで複数の時代を行き来する。それはあくまでも表層的なことなのだけど、本当に半生をかけて作り上げたものだという、生きてきたことの密度の濃さが生々しく全編に漂っている。平易な言い回しだけど決して冗長にならず、感情を浮かび上がらせる言葉選びには宇多田ヒカルの息吹を感じる。

その宇多田ヒカルの新曲「Play A Love Song」は、もう歌詞がすごすぎてはじめて聴いた時泣いてしまった。リリースされたのがちょうど昨日書いた暗い記事のことを考えていた時で、その不安を浄化するような内容だったのだ。すべての行に自分がかけてほしかった言葉があるし、誰かが落ち込んでいる時にかけてあげたい言葉だった。ちょっと自分が文章を書く必要はもうないかも、と思ったくらい。

宇多田ヒカルは聴いている人の悲しい気持ちや時間を否定しないし、「雨が上がって虹がかかる」みたいにそれが糧になるとも言わない。未来に繋がらない悲しみにくれる時間はある。ただ、それが世界のすべてではないよ、と言ってくれているように思う。そういう意味では「泣いたって何も変わらないって言われるけど/誰だってそんなつもりで泣くんじゃないよね」と歌ったデビューの頃からその精神性は何も変わっていないのだ。

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あと、最近はすばるの『ぼくとフェミニズム』特集を読んでいます。原稿はエッセイ、対談、評論など種類によって前後はしながらも、概ね五十音順に並べられていて、最初はそれに違和感があった。次の原稿で全然違う意見が出てきたりするからだ。有機的に配置されていないというか……。ただ、読み進めていくうちに敢えてそれぞれが結びつかないようにしていることに気づく。これはあくまで「ぼく」、つまり個人とフェミニズムの関係であって、「ぼくたち」=男性として連結してしまうと途端に意味が変わってしまう。男性はフェミニズムの世界では抑圧者としての側面をぬぐいきれないということもあるし、フェミニズムの現在的な意味が性的少数者や様々な差別の問題と結びついて個を尊重するという考えになってきていることを考えると男性vs女性という構図になりうる可能性は排除しなければならないからだ。*1

まだ途中までしか読めていないのだけど、自分が一番共感したのは杉田俊介さんや滝口悠生さんらのもの。そこには、自分たちが男性であること、それにより、自分の思想にかかわらず社会的には些細な場面でも何らかの利益を受けているという自覚がきちんとあると思う。自分がぼんやりとしか考えられていなかったこの視点を、しっかり言語化している人が複数人いたことはすごくよかった。僕自身はゲイなので、(細分化されているとはいえ)マイノリティということで親和性の高いフェミニズムに入れ込むことができないのはこのポイントが大きいのだと思う。職場などカミングアウトしていない場所もあるし、初対面の人にいちいち自分の性的嗜好を言うことはない。でも、社会的なバイアスとして「男性であること」で絶対に何か恩恵を受けているから、自分のことを一概に社会的弱者だとは思えないし、女性たちと完全に同化するわけにはいかないのだ。

それにしても、色々と本を読むたびに現代的なゲイたちの苦しみはフェミニズムだけじゃなくて、男性学的な視点で解放されるものがたくさんあるんじゃないかと思う。男らしさを外側から眺めたり、ホモソーシャルな世界に馴染めないことは敗北でもなんでもない、ときちんと知ることで、日常的な苦しみを取り除ける場合もあるんじゃないかな。

 

*1:2018年5月追記:このあと、武田砂鉄さんの評論『「いつもの構図」を脱却する』を読んで、この部分、ちょっと誤読してたかもと思う。「ぼくたち」としないことは連帯を回避しているけど、「ぼく」という一人称は一般的に男性のものであり、むしろ男性vs女性とすることで可視化される社会的なものを炙り出そうとしているように見える