感じ方/伝え方

差別的なことや、嫉妬や、軽蔑といった感情が、自分の中にはいつも渦巻いている。立派な人をみると、その人の良いところを真似するより、その中にある大したことのない部分を見つけて安心しようとする。傍目では謙虚に見えるように振舞っているけれど、その中にあるのは卑屈さだ。自尊心の低い人は、時に勝ち気な人よりもずっと傲慢だと思う。

多分、その性質はそう簡単に変わるものではないのだろう。だから自分とうまく付き合っていく方法として、胸の内に浮かぶものを裁かない、というやり方を採った。醜い感情が湧き上がることを許しながら、一方で、それを他人にぶつけることを禁じた。差別的ではないか、相手の心を切りつけるためだけの表現になっていないか、可能な限り検分する。その前にどんな逡巡があっても、僕という人間が何を肯定しているかは、目に見えるかたちで現れる。

そんな格好良く言い切れるほどうまくできてはいないし、イエスと言ってしまっているような状況だけど本当は違うんです、と言い訳したくなることもたくさんあるのだけど、これが自分にとって一番フィットするやり方なのだと感じる。

 

でも、そんな原理で動いているのに、人が何を考えているのかいつも深読みしてしまう。行間や、考えてもわからないような微妙な表情ばかりを読んで、この人は本当に信用して良いのか、今の発言で嫌われはしなかったか、いつも気にしている。言葉をただ額面通りに受け取って、関係が成立するほど人は単純ではないけれど、それにしても疑いすぎだ。

何より問題なのは、自分の胸の内は許したのに、他人の胸の内に立ち入ろうとしていることだ。自分にとって感じ方よりも伝え方が大事だと思うなら、人に接するときだって同じように尊重すべきではないか。致命的で、都合が良い矛盾だと思う。そしてその矛盾を成立させているのは、自分がどう思うかに価値を見出さず、相手にどう思われているかばかりを気にしている、自信のない自分なのだ。

 

どんな風に感じるかと同じくらい、それをどうやって伝えるかということも、その人を形作る大きな要素だ。それなのに、感じ方のほうにばかり真実があると思ってしまうのはどうしてだろう。

相手の感じ方と、自分の伝え方にばかり気を取られていた気がする。でも、それだけでは不完全だ。わずかな声の震えや、眉の動きとかに「本当の気持ち」の発露を探すことに終始するのをやめよう。もっと相手の伝え方をよく見て、そして自分の感じ方をしっかりキャッチしないといけない。自尊心も、コミュニケーションも、そこからはじめないといけない。