自己犠牲が呪いだとか美しいだとか

自己犠牲は美しいか、と考えることがある。つい先日も、のぶみさんという絵本作家の方が作詞をした歌「あたしおかあさんだから」が話題になっていて、このことに頭をめぐらせずにはいられなかった。

「あたしおかあさんだから」は、子どもを生む前は自分のことを優先して生きてきた母親が、出産後は子どものことを何より考えて、自分をないがしろにしても愛している、と子どもに語りかけるような内容の歌。この歌を知ったのは、「母親の自己犠牲を美化している」と批判するある人のつぶやきがきっかけだった。そのつぶやき以外も色々と見かけたけれど、総じて不快感を示すもので、中には「呪いだ」と言っている人もいた。他には、「あたしおかあさんだけど」と、自分自身を楽しむことを忘れない母親の替え歌を披露している人も見かけた。

こうした一連の騒動には、頷ける部分がたくさんあった。でも、言葉のあやかもしれないけれど、どうもこの歌に励まされる人の存在を否定したり、自己犠牲そのものを否定する領域にまで踏み込んだりしてしまっているような過激な発言も目立って、それは違うんじゃないかという気がした。

なんていうか、自己犠牲、あるいは献身って、それなりに気持ちいい感情でもあるのだ。健康か不健康かでいえば不健康寄りかもしれないけれど、誰にも頼れない状況というのはやっぱりあって、そういう時にその気持ち良さがあるからこそ、心が折れずに乗り切ることができたりもする。のぶみさんが「あたしおかあさんだから」を実際の母親への取材をもとに書いたというのは、この側面が強く出たものなのだろう。そして実際、少しくじけそうな気持ちの時にこの歌を聞いたら、励まされる人もいるんじゃないかと思う。

ただ、自己犠牲の厄介なところは、それが過剰に美化される傾向があることだ。献身している本人も相手が喜んでくれるので素晴らしい感情だと思いこんでしまい、それが自分自身をすり減らしていることに気づきにくい。そうやって追い詰められて追い詰められて疲れ切った時に、この歌を聞くのは、たしかにしんどいだろう。奮起できる人もいるかもしれないが、鞭打って立ち上がる、という以外の答えを示せない時点で、応援歌だとしても残酷さは拭えない。

自己犠牲はそんなに美しいものではないし、でも呪いというほどひどいものではない。もっと状況によってバランスを取らないといけない複雑さの上に成り立っているもので、時と場合によって必要なものという、それ以上でも以下でもないと思う。

だから今回の炎上は「この歌詞に共感できる人/できない人」という対立ではなく、本来は「この歌詞に共感できる時/できない時」というベクトルで語られるべきではないか。自己犠牲が機能するステージと、それよりも自分自身を休めることが大切なステージがあり、のぶみさんには前者しか見えていなかった。でも、日本のお母さんたちは圧倒的に後者のステージにいる人が多かった。それは、それだけ日本の育児の現場が逼迫しているということでもあって、ワンオペ育児とか定期的に話題になる中で、取材したならもうちょっとカバーできたはずじゃないかな、とは思ってしまうけれど。

本当にお母さんたちの応援歌を作りたいなら、大人の事情とか色々あるかもしれないけど、今から歌詞を新しく書いたらいいんじゃないでしょうか。もしくは「あたしおかあさんだけど」って曲をのぶみさん自らが作るとか。こんなにいろんなお母さんの声が聞けるタイミングは滅多にないだろうし。