小室哲哉の引退会見(自分への贖罪ということ)

小室哲哉の引退会見を読んだ。まず純粋に「こんなに弱さを正直に話せるのはすごいな」と思う。月並みだけれど、自分の弱さを認めることは、誰にでもできることではないからだ。インテリ層ほど「弱さを認められる寛容な社会」を主張するけれど、いざ自分が「弱さを認めて、大勢に批難される」という立場に立たされた時、それでも正直に話せる人は、少ないと思う。

ただ、多くの人が指摘しているとおり、「罪をつぐなって引退する」というのがよくわからない。会見を読んでも、ここだけ飛躍があるように感じてしまう。

引退は決して不倫問題だけではなく、背景に自分の才能への不信感があることは、会見で何度も語られていた。それは本当のことなのだろう。でも、それとこれとはまったく別の問題で、それを結びつけてしまうのはどうしてなんだろう、と思った。

世の中は基本的には、あるいは表向きは、良いことをした人が評価され、悪いことをした人は罰を受けるつくりになっている。でも、誰が悪い、で片付けられない悲劇が、この世界ではしばしば起こる。誰も、何も悪くないこともある。そんな時、人はその世界を受け入れるより、原因を見つけることで安心するものなのらしい。この人はこんなひどいことをした悪人なんだから、ひどいめにあっても仕方ない。そうやって理由づけて、自分とは関係のない出来事なのだと隔離すれば、世界に働いているシステムを信じていられる。*1

小室哲哉はその「悪人」を、自ら引き受けようとしている感じがした。

それぞれに過ちはあったのかもしれないけど、これは誰が悪い、で解決する問題ではないだろう。外から見れば、そう思える。でも、当事者にとってもそうとは限らない。内面化された社会の規範とか、妻への愛情とかがきちんとあるのに、よくないことをしている、という気持ちをぎりぎりまで抱えて、それは途方もなくしんどかっただろう。罪悪感はじりじりと、精神を摩耗させていく。自分で自分が許せなかったのだと思う。

そしてその自分を許すために、罰を受けようとしているように思えた。だからこれは、あくまで自分に対する贖罪なのだ。だとしたら、音楽をやめるということも、それによって妻のサポートが難しくなったという発言と合致する。

それなのに、あんな風に報道されることで、社会に対する贖罪と混同して語られてしまっているように思う。

 

ただ、その自分に対する贖罪が適切かどうかというのは、誰かが相談に乗るべきだと思う。自分自身へのけじめは、あくまで自分自身のために必要だけれど、それは時に暴走する。引退というのは冷静な判断ではない気がするし、発言を読んでいても、生きることを諦めてしまわないか不安になることがある。

この社会で、あれだけの弱さを話してみせた小室哲哉は本当にすごい。ただ、弱さを認めることと、罪をつぐなうことは、重なる部分はあるけれど同じではない。正しく強いものだけを認める社会が、それを勘違いさせるけれど。彼の償いの中にも、その勘違いが埋め込まれていて、それが結果的にその社会に加担してしまっているし、判断を過剰にしてしまっているんじゃないかと思うのだ。

その社会で生きている以上、開き直らずに「自分だけのつぐない」をすることなんて、まあ無理なんだけど。でもやっぱり、こんなの絶対に間違っている、という感覚が残る。

*1:これ、Twitterでまわってきた心理学のサイトで紹介されていた話なのだけど、そのツイートを見失ってしまった。けっこうバズっていたので、思い当たる人教えてください。