Twitterハッシュタグでよくある「いいねしてくれた人に◯◯」というのが苦手だ。◯◯の中には「動物にたとえる」とか「本音を言う」とかが入るのだけど、どういう距離感の人ならいいねしていいのかがわからなくて考え込んでしまう。まだ親しくない人だったら「そもそもあんたのこと知らないよ」と思われてしまいそうだし、仲の良い人にやるのも、どう思われているかをそんな正面切って聞くなんてお膳立てされすぎていて恥ずかしい。それに、コミュニケーションの大事なところだけを切り取ったような感じがして、それでいいのか、とも思ってしまう。

 

しかし、友人たちがやっているのを見ているといつも「超楽しそう……」と思う。興味はあるのだ。だけどいつも考え込んでいるうちに投稿からずいぶん時間が経って、今更いいねしづらくなり、結局やめてしまう。そんなことを繰り返し、いつの間にかそれがタイムラインに流れてくると、見てないふりをするようになった。そもそも自分以外誰も見ていないのだけど、毎回「えーっこんな面白そうなのやってたんだ、えーっ気づいてたら絶対いいねしてたのに〜!」と頭の中でぶつぶつつぶやいて、自分自身に言い訳をするようになってしまった。

 

もう、書いていて本当にダサいし戦っている内容が相当しょぼい。「コミュニケーションの大事なところだけを切り取ったような感じ」、全然いいではないか。それはクイックかもしれないが、友人たちのやりとりをみていると決してインスタントではない。思わぬ本音に出くわしたり、時には大喜利に発展したりすることは、たいていの場合プラスに働いている。立派なコミュニケーションだ。その「方法」なんかで白黒つけようとして身動きがとれなくなっている自分の方が、よっぽどナンセンスだ。

 

そう思って、2018年、このハッシュタグ文化にはじめて参加してみました。友人がやっていた「いいねしてくれた人に一言」というもので、最初はいつも通り見てないふりをしてしまったのだけど、その人がコメントをはじめたのを見て、焦って遡りいいねを押した。

その友人はいつも僕のアパートメントの文章をとても好きと言ってくれる人だった。だからまあ、書くことがなくて気まずい、という困らせ方をすることはないだろう、と踏んでいた。翌日に送られてきたコメントにはやはりそのことと、あとこれまでに会話の中で聞いたことがあるいくつかの自分の印象を書いてくれて、目新しさはなかったけど、あらためて言葉にされるととても嬉しかった。好きな人に何度も好きと言っても退屈しないみたいに、こういうのはきっといくら繰り返してもいいのだ。

その友人のコメントには「あんまり言葉を重ねると野暮な気がして」とも書かれていた。そういう「野暮」なコミュニケーションを、自分は遠ざける癖がついてしまっているのだと思う。そうやって踏み込むことや、踏み込んでもらうことが、いつの間にかうまくできなくなってしまった。それで「寂しい」とか言ってるのって、馬鹿みたいだ。

全員と、そうである必要はない。だけど、仲良くなりたい人には野暮でもきちんとコミュニケーションをしないといけない。

なんとなく恥ずかしいとか、野暮に思えるとか、そんな理由で遠ざけていたことに、今年はどんどん挑戦していきたい。