金曜日、原稿を二本書き終え、家で本を読んでいると恋人が帰ってきて、今日のことを楽しそうに話してくれる。会社の忘年会があり、先週末に買った一眼カメラを持って行ったらみんなにすごく喜ばれたこと、忘年会で出た食べ物がおいしかったこと、この1年間の仕事を評価され、表彰されたこと。名前を呼ばれた時は写真を撮るのに夢中でよくわかっておらず、「食べる暇もないほど写真を撮ってたから急遽賞を作ってくれたのかな」と思ったらしいが、正当に仕事ぶりが評価されたのらしい。自分のことのようにうれしくて、思わず泣きそうになってびっくりした。

 

土曜の朝、起きてからも気分の良さが続いていた。恋人も機嫌が良さそう。11時から予約していたiPhone Xを受け取りに、近所のソフトバンクショップへ。寒いけど雲ひとつないほど晴れていて、気持ちが良い。こんなに何も心配しない、澄んだ気持ちになるのは数ヶ月ぶりだと思った。大切な人が幸せでいてくれるということには、ものすごい力がある。だけどだからといって、それだけで満たされるわけではないのだろう。素直に喜べるのは、自分自身も満たされているからだ。

 

以前なら、「大切な人がみんな幸せならそれだけで何もいらない」とか考えていたと思う。それは本気でそう考えていたのだけど、でも同時に「だったら自分が生きている意味ってなんだろう」と思ってもいた。

悟ったような言葉を掲げて、実際のところは自信のなさが積み重なって、幸せになることを諦めていたのだろうと思う。他人の幸せで穴埋めして、自分のことから目をそらしていた。だけどどれだけ幸福な舞台が繰り広げられていても、傍観しているだけでは寂しい。幸福でない瞬間がほとんどだとしても、人生に参加しないといけない。少なくとも自分のような、まだ何も手に入れてないような人は。

 

誰かの幸せに共感するだけでなく、自分の幸せを自分のものとして感じること。それができている今は、これからに向かうスタート地点になる気がした。

そういう精神的なうれしさと、単純に新しいiPhoneにするという物質的なうれしさと、複数のレイヤーのうれしさが重なって本当に気分が良かったのだけど、機種変更に思いの外時間がかかってしまい、昼過ぎから予定があった恋人とランチを食べられなかったり、初期設定がうまくいかなくてムカムカしたりしているうちにだんだん気持ちが濁っていった。そのひとつひとつは本当に些細なことで、こんなどうでもいいことでこの素晴らしい気持ちがだめになっていくのかと思うと余計に悲しくなってしまった。でも、少し時間が経った今、まあそう長続きするものでもないのだろう、と思う。だから尊いのだ。どんどん萎んでいく時はもちろん名残惜しいし、それが良いものであればあるほど悔しいけれど、逆に跡形もなくなって「今」とその素晴らしさが切り離されてしまえば、「あった」ことの強さは少しも減らず、強さとして残る気がする。