Spring has gone(四月の記憶)

最近はTwitterに疲れてしまって、つぶやくことをほとんどやめてしまった。笑い事にしていいのか?と思うようなニュースに対して、露悪的な意見にうっすらとユーモアをまぶしただけ(それによってより下品になっている)のような感想ツイートがすごい勢いで拡散されているのをみると、力が抜ける。しかも悪意があるわけではなくて、当事者意識がないからそうやって面白がれるのだ。その観客的なスタンスがしんどい。有意義な情報も多いし、替わるものもないから今後もここから色々と情報や考えを得るのだと思うけど……。

それだけ言っておきながら、その「Twitterで読まれる」ことを過剰に意識していると思う。意識しているけど、意識したくない、というせめぎ合いがあって、考えなしにつぶやくことができないし、疲れるわりに別に誰の目にも留まらない。このブログもそれ以上に読まれていないのだけど、何より自分のために書いている、という意識があるから別に良くて。

だから何か心を動かされる音楽や文章、できごとがあった時はブログに書きたいな、と思うんだけど、どうしても落ち着いて書きたいし、少し時間がかかってしまうから、色々と逃してしまうのが今の課題でもある。

ということで4月後半にあったことを雑感として色々と書きたいのですが、まず音楽でいうとコーチェラのビヨンセである。当日は見逃してしまい、数日後にニコ動で見たのですが、画質がかなり悪いにもかかわらずその迫力は十分に伝わってきて、生で見ていたらどんなに興奮しただろうと思った。実験的なというわけではなく、誰もが熱狂するほどダイナミックでポップ。最高のエンタメでありながら決して消費されないもの。そして歴史を背負い、切り開こうとしている。これができるのは今この人しかいない、ということをやっていると思う。感動してしまって、見た後しばらくは「こんな時ビヨンセならどうするか?」という判断基準で生活をしていた。具体的に何をしたかというと、ジムでいつもより1km多く走ったくらいです。

あとは宇多田ヒカルの「Play A Love Song」と小袋成彬の『分離派の夏』でしょうか。ジャネール・モネイの新作など、今週は聴き込みたいリリースがたくさんあった。『分離派の夏』は全体的にフランク・オーシャンともリンクするインディR&Bっぽさと内省で、ものすごく今の感覚を捉えた一枚だなあと思う。ロンドン、台場、グアム、サンティアゴ茗荷谷などの数々の場所が散りばめられ、歌詞の内容もその街での記憶から学生時代の頃、長い一人暮らしを経た現在のことまで複数の時代を行き来する。それはあくまでも表層的なことなのだけど、本当に半生をかけて作り上げたものだという、生きてきたことの密度の濃さが生々しく全編に漂っている。平易な言い回しだけど決して冗長にならず、感情を浮かび上がらせる言葉選びには宇多田ヒカルの息吹を感じる。

その宇多田ヒカルの新曲「Play A Love Song」は、もう歌詞がすごすぎてはじめて聴いた時泣いてしまった。リリースされたのがちょうど昨日書いた暗い記事のことを考えていた時で、その不安を浄化するような内容だったのだ。すべての行に自分がかけてほしかった言葉があるし、誰かが落ち込んでいる時にかけてあげたい言葉だった。ちょっと自分が文章を書く必要はもうないかも、と思ったくらい。

宇多田ヒカルは聴いている人の悲しい気持ちや時間を否定しないし、「雨が上がって虹がかかる」みたいにそれが糧になるとも言わない。未来に繋がらない悲しみにくれる時間はある。ただ、それが世界のすべてではないよ、と言ってくれているように思う。そういう意味では「泣いたって何も変わらないって言われるけど/誰だってそんなつもりで泣くんじゃないよね」と歌ったデビューの頃からその精神性は何も変わっていないのだ。

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あと、最近はすばるの『ぼくとフェミニズム』特集を読んでいます。原稿はエッセイ、対談、評論など種類によって前後はしながらも、概ね五十音順に並べられていて、最初はそれに違和感があった。次の原稿で全然違う意見が出てきたりするからだ。有機的に配置されていないというか……。ただ、読み進めていくうちに敢えてそれぞれが結びつかないようにしていることに気づく。これはあくまで「ぼく」、つまり個人とフェミニズムの関係であって、「ぼくたち」=男性として連結してしまうと途端に意味が変わってしまう。男性はフェミニズムの世界では抑圧者としての側面をぬぐいきれないということもあるし、フェミニズムの現在的な意味が性的少数者や様々な差別の問題と結びついて個を尊重するという考えになってきていることを考えると男性vs女性という構図になりうる可能性は排除しなければならないからだ。*1

まだ途中までしか読めていないのだけど、自分が一番共感したのは杉田俊介さんや滝口悠生さんらのもの。そこには、自分たちが男性であること、それにより、自分の思想にかかわらず社会的には些細な場面でも何らかの利益を受けているという自覚がきちんとあると思う。自分がぼんやりとしか考えられていなかったこの視点を、しっかり言語化している人が複数人いたことはすごくよかった。僕自身はゲイなので、(細分化されているとはいえ)マイノリティということで親和性の高いフェミニズムに入れ込むことができないのはこのポイントが大きいのだと思う。職場などカミングアウトしていない場所もあるし、初対面の人にいちいち自分の性的嗜好を言うことはない。でも、社会的なバイアスとして「男性であること」で絶対に何か恩恵を受けているから、自分のことを一概に社会的弱者だとは思えないし、女性たちと完全に同化するわけにはいかないのだ。

それにしても、色々と本を読むたびに現代的なゲイたちの苦しみはフェミニズムだけじゃなくて、男性学的な視点で解放されるものがたくさんあるんじゃないかと思う。男らしさを外側から眺めたり、ホモソーシャルな世界に馴染めないことは敗北でもなんでもない、ときちんと知ることで、日常的な苦しみを取り除ける場合もあるんじゃないかな。

 

*1:2018年5月追記:このあと、武田砂鉄さんの評論『「いつもの構図」を脱却する』を読んで、この部分、ちょっと誤読してたかもと思う。「ぼくたち」としないことは連帯を回避しているけど、「ぼく」という一人称は一般的に男性のものであり、むしろ男性vs女性とすることで可視化される社会的なものを炙り出そうとしているように見える

感じ方/伝え方

差別的なことや、嫉妬や、軽蔑といった感情が、自分の中にはいつも渦巻いている。立派な人をみると、その人の良いところを真似するより、その中にある大したことのない部分を見つけて安心しようとする。傍目では謙虚に見えるように振舞っているけれど、その中にあるのは卑屈さだ。自尊心の低い人は、時に勝ち気な人よりもずっと傲慢だと思う。

多分、その性質はそう簡単に変わるものではないのだろう。だから自分とうまく付き合っていく方法として、胸の内に浮かぶものを裁かない、というやり方を採った。醜い感情が湧き上がることを許しながら、一方で、それを他人にぶつけることを禁じた。差別的ではないか、相手の心を切りつけるためだけの表現になっていないか、可能な限り検分する。その前にどんな逡巡があっても、僕という人間が何を肯定しているかは、目に見えるかたちで現れる。

そんな格好良く言い切れるほどうまくできてはいないし、イエスと言ってしまっているような状況だけど本当は違うんです、と言い訳したくなることもたくさんあるのだけど、これが自分にとって一番フィットするやり方なのだと感じる。

 

でも、そんな原理で動いているのに、人が何を考えているのかいつも深読みしてしまう。行間や、考えてもわからないような微妙な表情ばかりを読んで、この人は本当に信用して良いのか、今の発言で嫌われはしなかったか、いつも気にしている。言葉をただ額面通りに受け取って、関係が成立するほど人は単純ではないけれど、それにしても疑いすぎだ。

何より問題なのは、自分の胸の内は許したのに、他人の胸の内に立ち入ろうとしていることだ。自分にとって感じ方よりも伝え方が大事だと思うなら、人に接するときだって同じように尊重すべきではないか。致命的で、都合が良い矛盾だと思う。そしてその矛盾を成立させているのは、自分がどう思うかに価値を見出さず、相手にどう思われているかばかりを気にしている、自信のない自分なのだ。

 

どんな風に感じるかと同じくらい、それをどうやって伝えるかということも、その人を形作る大きな要素だ。それなのに、感じ方のほうにばかり真実があると思ってしまうのはどうしてだろう。

相手の感じ方と、自分の伝え方にばかり気を取られていた気がする。でも、それだけでは不完全だ。わずかな声の震えや、眉の動きとかに「本当の気持ち」の発露を探すことに終始するのをやめよう。もっと相手の伝え方をよく見て、そして自分の感じ方をしっかりキャッチしないといけない。自尊心も、コミュニケーションも、そこからはじめないといけない。

よく見える日々

昼食を食べて部屋に戻ってきたら、隣のマンションの屋上にある室外機の羽がゆっくりと回転しているのが見えて、それがどんよりとした空模様とよく似合って綺麗だと思った。ここ数日、こういう日常のほんの瑣末な風景に見とれることが増えた。といってもなんてことはなくて、単にコンタクトレンズの度数を上げたのである。

コンタクトの度数はもうずいぶん前から変えていなかった。ネットの通販なら処方箋をもらわなくても買えるから眼科に行くこともないし、会社で健康診断をやってくれないので視力を測る機会もない。そもそも困るほど見えないわけではなかった。でも、最近少し遠くの文字が読みにくいことがあるし、毎日パソコンに向かいっぱなしで仕事をしているのだから目が悪くなってもおかしくない。それで、ちょうどコンタクトレンズがなくなるタイミングで中野にある眼科へ行って、ちゃんと処方箋を書いてもらった。

まず、古いコンタクトで視力を測定する。その時点で「1.0ありますね」と言われ、(えっ、全然悪くないじゃん、作り直すのやめようかな)と思ったのだけど、こちらが何か言うより早く「まあでも見えにくいと行って来られてるわけだし、上げていきましょう!(視力を)」と元気よく言われ、なすがままサイボーグみたいな眼鏡にレンズをはめたり外したりされながら「右」とか「下」とか答えていた。最終的に、レンズの度数は両目とも1.25ずつ上げられることに。0.25刻みなので、5段階も上げられたことになる。眼科にかかる前でもまあ2段階上がるくらいかな、と思っていたのに。そもそも視力が1.0あったのにそんなにジャンプアップしていいのか。半信半疑だったけど、とりあえず新しく用意されたコンタクトを装着したらめっちゃ見える。ついさっきよりも世界の輪郭がシャープになった感じだ。今の視力がいくつあるのかはわからないのだけど、木の枝についている若葉の数を数えられるくらいとにかくはっきり見える。そして、色んな細かいものがよく見えるのって発見がいろいろあって楽しい。同じ道を歩いているのに、違う景色を見ているみたいに新鮮な気持ちになれる。あと、見ているものが全然きれいじゃなくてもなぜか感動してしまう。すれ違った女性のアホ毛の細さとか、電光掲示板に映る文字の尖り具合とか。これは何なんだろう? 映像や写真でも、何でもないものでも超高画質で撮ると妙に綺麗に感じて感動することがあるけど、それに近いのだろうか。でも、そもそもどうして高画質だと感動するのか、というところはよくわからない。ネットでも調べてみたけどそれらしい答えにたどり着くことはできなかった。すごく気になる。

 

しかし人の目は生まれた瞬間から刻々と劣化し続けているというので、このよく見える日々もそう遠くないうちに終わるのだろう。あるいは、慣れてしまって感動しなくなるか。そうなる前に色々なものを見ておこう。そして次もっと視力が落ちたらまた度数を上げれば、再びよく見える日々を迎えられるのだ。そう考えると、目が劣化していくのもあながち悪くないかもしれない。

Kylie Minogue『Golden』感想、あるいは年齢を重ねることを恐れない人

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まだ冬のうちに公開された「Dancing」を聴いて、ノスタルジックなギターの音に惹かれた。どんなアルバムになるんだろう、と楽しみにしていたカイリー・ミノーグの新作『Golden』を、春の夜らしい涼しさの中で聴く。

カントリーテイストを取り入れたダンス・ポップには、これまでのような眩しさはないけれど、それでも彼女らしいきらめきが音の中に散りばめられている。歌声も艶がありながら、時折深みのある表情を見せる。落ち着いているけれど、そのぶん広い視点で人生を振り返り、そしてこの先を見つめているように感じられる。

人生やノスタルジーを持ち出したくなってしまうのは、単なるカントリー・ミュージックのマジックなのかもしれない。でも、その魔法もカイリー本人にその気がなければ起こせないだろう。

 

女性であることを謳歌しながら、年齢を重ねることを恐れない。生き続けることで、若さとは違う価値が芽吹いてくるのを信じている人。最近のカイリーには、そんな印象を抱く。まず、2012年にセルフカバーアルバム『The Abby Road Sessions』を発表。オーケストラを従え、過去のクラブヒットをフォーマルにドレスアップさせるとともに、長く歌い続けられるリアレンジになっていた。ある意味今作『Golden』も、若々しさに頼らないという点ではこの試みと地続きだろう。

では、2014年のアルバム『Kiss Me Once』はどうか。ここでカイリーはかつてのように、セックスシンボルとしての扇情的な表現を展開している。この作品は「この年齢にもなって性愛のことばかり歌っているのは軽薄」と、レビューサイトや音楽誌からは否定的な声もあったと聞くのだけど、性愛について若者しか歌ってはいけないというのはすごく表層的だし、そもそもたまには性愛のことばかり歌ったっていいじゃん、とも思う。

 

www.youtube.com

それにカイリーの場合は、その表現が必ずしも若者のためのものではない。「Sexercize」のPVでは鞍馬やバランスボールを使ったエロティックなエクササイズをする姿が映されている。これは奔放さではなくて技術や体型の維持によって快楽を得ようとするもので、当時40代半ばだったカイリーがやるからこそ意味があるもののように思う。同じく性愛を歌った「Les Sex」もビートがスポーティーで、いやらしさが少ない。

余談だけど、このあたりは同じくアイコンとして比べられることも多いマドンナとは対照的だと思う。マドンナが2015年に発表した最新作『Rebel Heart』には、彼女はニッキー・ミナージュをフィーチャリングした「Bitch I'm Madonna」という曲があったり、「S.E.X」という曲に喘ぎ声を入れたりしている。カイリーがレディに転身したのに対し、マドンナはビッチであり続けているのだ。それはそれでパワフルで良いのだけど、若さに固執している感じもして、見ていて苦しくなることもある。

 

とはいえ、カイリーも最初から加齢を受け入れたわけではなかったようだ。調べる中で、カイリーのボトックス注射に関する記事を見つけた。

https://news.walkerplus.com/article/107811/

ちょっとタイトルやニュアンスがひどいのでリンクしたくないのだけど、参照元を貼らないのも嫌なのでURLだけ貼っておく。記事によればカイリーは2009年にエル誌のインタビューで「若くいたいならボトックスでもなんでも試してみればいいと思う」と発言。しかし2010年には「今はボトックスはやっていない。もっとナチュラルな方法に頼るようになった」と言っている。そして2017年の春にはThe Australian誌で、「エンターテイメント業界にいるプレッシャーから、過去にボトックスを過剰に使用してしまったことを認めざるをえない」「昔と同じような感覚でランジェリーのコマーシャルにでることはないけれど、年齢でファッションを制約したくない」と語ったという。

とにかくカイリーが劣化した、という方向に持っていきたがっているゴシップ記事だけど、この「昔と同じような感覚でランジェリーのコマーシャルにでることはないけれど、年齢でファッションを制約したくない」という発言、前後の文脈はわからないけど超かっこいいのではないか。年齢を受け入れながら、若々しくい続けるのを諦めないことはできるし、籠城戦のような美との付き合いから自由になった人は、とても気品があると思う。そのステージを降りることは敗北ではないし、むしろ降りた者から新しい地平を開いてゆける。その姿を、カイリーはまさに「Dancing」のMVで体現している。


Kylie Minogue - Dancing (Official Video)

 

『Golden』のタイトルトラックには、こんな歌詞があった。

”We're not young, and we're not old

We're the stories not yet told

Won't be bought and can't be sold

We are golden”

「私たちは若くない、でも年寄りでもない/私たちはまだ語られていない物語/買われることも売り渡されることもない/私たちは輝いている」。年齢を重ねることは人生を背負うことでもあるし、そうするからこそできる輝き方もある。カイリーの新しい物語を祝福したい。

ランニング・マシーンの恐怖

緩やかに体重が増え続け、体のシルエットが変わっていく現状に歯止めをかけるべく、ついに今月からジムに行き始めた。入会したのはここ数年で一気に増えた、いわゆる24時間ジム。昨日は仕事が終わってから23時半くらいに行ったのだけどけっこう人がいて、東京はすごいな、と思う。

今のところ単純に体を動かすのが気持ちよく、マシンを使って筋トレをするのは日々のデスクワークでごりごりに固まった肩にも効きそうで、まだ2回しか行ってないけどみるみる健康になっている感じがする。どんだけ体動かしてなかったんだという感じだけど……。

自分の自信のなさは身体的なコンプレックスからきているところもあるなと思うので、それによってどう心象が変化していくかも観察したい。筋肉がついたことで妙に自信満々になったりする人いるじゃないですか。あれって単純に筋トレがストレス発散になるというだけではなくて、絶対に自己肯定感が高まっているんだと思うんだよな。あと、「筋肉はオカマのドレスよ」という新宿二丁目に伝わる格言があって、まああの業界はルッキズムえぐすぎ、と感じることも多いのだけど、とはいえ世の中のシャツやジャケットはお腹周りがすっきりしていて胸筋がほどよくあったほうが様になるのも事実なわけで、良いと思った洋服を試着してみたら全然似合わない、という「洋服からの拒絶」を減らして日々を楽しくするためにも、美しい体でいたいな思う。ただ、いま美しいと言いましたがその基準は一律ではなく、自分らしいかどうか、自分で自分を好きになれるかどうか、が大切だと思います。自分の場合はその基準が一般的な像と重なるというだけで。

 

ルッキズムやコンプレックスの話はおいおいしていくとして、今日話したいのはランニングマシーンである。実はランニングは去年の冬〜春にもやっていて、その時は外を走っていたのだけど、ある程度習慣づいてきたかな、というタイミングで父が倒れ、慌ただしくしているうちに夏になり、暑くてとても走る気にならず……という感じで途切れていたのだった。

実はそのマラソンの大会に、6月に出ることになったのである。去年の10月にも5キロの短い大会に友達と一緒に出ていて、それ以来一度も走ってなかったのだけど、今度は10キロ。そもそも10キロも続けて走ったことがない。だからその練習も兼ねて入会したところもあったのだった。

ランニングマシーンでは後ろに流れていくベルトの上をひたすら走る。ベルトが流れていくスピード=時速はパネルで0.1km単位で調整できるのだけど、この構造に対して妙な恐怖心を抱いてしまう。自分が何の支障もなく、同じスピードで走り続けられるという自信がないのだ。外の道を走っていた時はコンディションなどで自在に速度を緩めたり早めたりすることができたけど、ここでは速度を変えるためにはパネルを操作しなくてはいけない。パネルを操作するのはそんなに難しくないし、実際自分も走りながら緩めたり早めたりしているのだけど、何があるかわからない、という緊張感が拭えなくてちょっとパニックになりそうなことがある。しかも多少猶予があったらいいけど、ベルトは短いので1秒も止まっていたら滑り落ちてしまうし。あのベルトがもう2mくらい長かったら、気持ちが違うのかもしれない。

要するに自分の身体能力とか、瞬発力に不信感があるのだと思う。信じていようといまいと、いざという時は意外ときちんと発揮できるものなのは知っているけど、頭で考えるともうダメ。同じ理屈で、楽器とかダンスにもすごい苦手意識がある。昔はピアノやってたのになあ。ああいうのって頭も使うけど、基本的には体が覚えるもので、でも自分はその「体が覚える」がうまく理解できないんだなあ……と、運動神経のなさ、そしていかに自分が日々頭でっかちになっているかを噛みしめる。何も考えちゃダメだ、考えちゃダメだと思いながら、きっとまたベルトの上を走るのだろう。ベルト、外の道路と違って弾性があるので足への負担が少なくて、たくさん走れそうなのはすごく良いんだけどね。

回復のための語り

「語りと回復」というテーマが、最近の大きな関心ごとになっている。その中で、上岡陽江さんと大嶋栄子さんの共著『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』という本を読んでいたら、こんな文章があった。

”「何があったかという説明よりも、そこでどう思ったか、どう感じたかだけを話せばいいから」と言います。「言葉にならないけど大変なことがあって」とか、「今はまだ言えないけれどとてもつらかった」のように、経験をカッコのなかに入れるような話し方を教えたりもします”

上岡さんはダルク女性ハウスの代表で、自身も薬物やアルコール依存の当事者でもある。大嶋さんは心に病気を抱える女性の生活支援を行う場を提供するNPO法人リカバリーの代表。アルコール依存や自傷癖、精神障害などを持つ女性を長年にわたってサポートしてきた二人が見てきた、女性たちの姿や、彼女らを取り巻く問題点などについて書かれている。

この本全体の趣旨としては、上岡さんと大嶋さんがこれまでに関わってきた女性嗜癖者の姿をもとに、彼女たちの多くが幼い頃から虐待などなんらかの高い緊張を強いられる状況にあったこと、それゆえの考え方の傾向があり、サポートする人はどのようにするべきか、何に気をつけなければいけないのか、を綴ったものだ。タイトルにある「その後」とは施設や自助グループといったその人を支えてくれる場所とつながった状態のことで、そこに繋がったらハッピーエンドで上り調子に回復していくわけではなく、まだまだ困難や不自由は続く、それをどう生き延びるか、という本である。

なので、あくまでも当事者の彼女たちとその援助者に届くことが重要で、ここで得た知見を一般化する必要は必ずしもない、ということは断っておかなくてはならない。でも、そういう人以外でも当てはまるような部分が多くて、この本のペルソナになっている方々に読まれるだけではもったいない、と感じたのも事実だった。

引用したのは、この本の中の小さなコラムのひとつ。上岡さんはこの中で、トラウマ体験を深く語ることは回復につながらない、むしろはじめに深く語ることで、その記憶が現在と結びついてしまって、せっかく繋がれるかもしれない場所や人を失う可能性もある、と書いている。そして、回復につながるのは起こったことを説明するよりも、「その時どういう気持ちだったか」を話せるようになった時であることが多い、と続ける。

 

去年は自分だけの問題ではないので起こったことを詳細に書けないけど、めちゃくちゃしんどい、というできごとが立て続けに起きた年で、そういう時は自分は事実をぼかして感情の部分だけを吐き出すようにしていた。やっぱりあれは回復という観点では有効だったのだ、と確信を得る半面、ぼかして書いている自分をどう評価していいか揺れる気持ちはやっぱり残った。

それは、自分が人文系エッセイをよく読んでいるからだろう。もともとこのジャンルはどれだけ私生活や考えをさらせるかという、自己開示の覚悟がモノをいう世界だった。だから、ぼかして書いている自分には、人を傷つける覚悟も、自分が傷つく勇気もない。そんな風に感じてしまうのだ。

特に、ここ1,2年はさらにギアが上がった気がしていて、刺激的なストーリーがより強く求められている感じがある。ゴシップ的というか。もちろん、状況の過酷さに比例してその人の考えも研ぎ澄まされる傾向にあるので、一概にストーリーだけで評価されているとは言えないのだけど……。そしてそういう一冊は書き手の人生が乗っかっていて、やっぱり名著が多いからなんとも難しいのだけど……。

 

うーん、うまく話がまとまらない。自分の中で評価が揺れてるんだから当たり前な気もするが。ただなんというか、書き手と読み手の共犯関係に、少し疲れてしまっている。好奇心をそそるのではなく、その人の回復のための語りというのを尊重したいし、それを尊重しながらものを書く上で、人生をどれだけ晒せるかというベクトルとは別の道を探したいと思う。

 

その時に参考になるのは、『その後の不自由』にもあるような当事者研究の言葉であったり、あるいはここで書いた星野概念さんや、桃山商事の『生き抜くための恋愛相談』のような姿勢なのかもしれない。まだ具体的なところは何も考えられていない、予感程度のものだけど……なんて考えていたら、来月B&Bで星野さんと桃山商事の対談があることを知った。さっそくチケットを購入。移転してからB&B行けてないし、楽しみ。

にぎやかな公園

今住んでいるマンションの前には公園がある。代々木公園とか井の頭公園とか、そういう大きなものではなくて、だけど子どもが十分に駆け回れるくらいの広さがある公園。

平日の午前中は、子どもたちのはしゃぎまわる声が、部屋にいてもかすかに聞こえてくる。休日は平日ほどではないけれど、前を通りがかると親子連れや老人などがたくさん集まっているのが目に入る。都心は申し訳程度にブランコがあるだけの、鬼ごっこも難しそうな規模の公園がわりと多くて、そういうかえって街を寂しく見せてしまっている公園もある中、ここにはいつでも人が集まっている。

いつも、にぎやかな公園はいいなあと思う。突拍子がないようだけど、自分は本当はどんな人も愛したいのだ、なんてことを考える。関係性の中で憎悪は生まれるけれど、何も自分と接点がないゼロの人に対して、基本的には優しい気持ちを持っていたいと思ってるんだな、ということを確認できて、ちょっと安心する。それは新宿駅のホームや、渋谷のスクランブル交差点にいる人に対してはあまり思えないのだけど。

 

公園に植えられている木を見ながら、桜だったらいいね、と恋人と話していたのだけど、まだ何の花も葉もつける気配がない。街のあちこちが色づく季節を迎えて、期待が外れて良かった、と少し思った。