トマトとツナのパスタ

毎月仕事をくれていたウェブメディアが、なくなることになってしまった。

去年、自分がフリーランスの仕事をはじめてからわりとすぐのタイミングで声をかけてもらって、それから毎月コンスタントに依頼をもらっていた。20代の働き方についてのメディアで、内容も興味深かったし、編集の方の年も近くてやりやすかったのでとても残念。

一方で、フリーライターの仕事ってこういうのを繰り返して過ぎていくのかな、と思ったりもする。ウェブメディアは乱立状態だし、ずっと続いていくだろうと思っていた雑誌がいきなり廃刊、なんてニュースも珍しくない。愛着がある仕事でもそんなにない仕事でも終わりはあって、そして終わりは始まりでもある。電車を乗り継ぐみたいにしながら続けていくのだ。

今はたとえるなら一つの終着駅に立ち、さて次はどの電車に乗ろうかな、どんな場所に行きたいかな、と考えているところだろうか。ぶっちゃけ割と暇で、この生活だと毎月微妙に赤字、という感じ。焦ってそんなにやりたくない仕事をしても心がつらいし、ちょっとずつ貯金を切り崩してもゆっくりやってこ〜!なんて思っていた矢先、住民税の通知が届いて背筋が凍った。やってみたいことを探す=お金以外の価値を優先しつつも、稼ぐこともきちんと考えなくてはならない。清貧への憧れみたいなものはあるし、お金に対して批評的でありたいとも思っているけど、東京のザ・消費社会的な暮らしをやっぱり自分は楽しんでいて、それを強く否定する気持ちも今のところない。だったら、それを我慢しなくちゃいけないような状況は避けたい。

 

まあ、そんな面倒臭いことをあれこれ考えていてもすぐに仕事が降ってくるわけでもないので、いろいろ探りながら節約する方向で生活を黒字に近づけていくことにする。消費社会は楽しいけどめちゃめちゃお金が大好きなわけでもないし、フリーランスだと仕事に追われて他のことまで手が回らない、という時期は自分では選べず唐突にやってくるものなので、暇なうちは身の丈にあった善良な暮らしを追求しよう。そしてそんなことを考えていて時間を持て余している人間のする節約といえば、やっぱり自炊だ。いや、わからないけど少なくとも自分にとっては。別にこんなこと言い出す前から自炊はよくしているし、料理は普通に好きなのだけど、節約という切実さがあるのも嫌いじゃない。一人当たりの原価を計算しながら(この値段でこんなうまいもんが腹いっぱい食えるのかよ〜!)とか思うのは、料理をおいしくいただくスパイスでさえあるとも思う。根がケチな人間だけが味わえるスパイスであります。

ということで、今日はトマトとツナのパスタを作る。ぐらぐらと湯を沸かしながら、自分のためだけにご飯を作るのって久しぶりかも、と思う。恋人と同棲してからというもの、ご飯を作るとすればそれはいつも二人分で、向こうが用事で家にいない時などは外食で済ませがちだった。このパスタは一人暮らしをしていたときによく作っていたもので、ちょっと懐かしささえ感じる。

トマト1個を4等分し、それを2〜3等分に切る。ツナ(1缶)はオイルごとフライパンに入れ、弱〜中火で熱する。強火でやっても良さそうだけど、ツナが爆発して油がはねるのが怖いので弱火が多い。ある程度温まったらトマトを入れて、塩胡椒で味付けをする。塩をトマトにしっかりかけると、水分が出てトマトの味がツナにも絡むような気がする。

並行してパスタを茹で、茹で上がったらフライパンに移し、あえたら完成。我が家には粉チーズがないのだが、スライスチーズをちぎって混ぜてもおいしい。

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「森、道、市場 2018」愛知県蒲郡市 2018/5/11-12 感想Part2 音楽編

前回に引き続き、今度は音楽編。まず、見たアーティストはこんな感じでした。

 

●5/11

七尾旅人UA藤原さくらトクマルシューゴ

●5/12

Otto & Orabu→蓮沼執太フィル→小島ケイタニーラヴ TOWAI→青谷明日香→折坂悠太→ASIAN KUNG-FU GENERATIONORIGINAL LOVE

 

途中まで、途中からのものもあるけど、感想を書いていきます。

 

●5/11

七尾旅人

自分にとってもそうだし、イベントとしても最初のアクト。少し早めに行ったのだけど、リハで「セトリから外した曲なんだけど」と言いながら「サーカスナイト」をやってくれて、聴けてよかった。フェスは基本的に1人ででるけど、今回は瀬尾高志さんというウッドベース奏者との編成。

七尾旅人のライブ自体、ちょっと久しぶりに見た気がするのだけど、ここ数年で作ったらしい曲を多く演奏していて、知らない曲が多かった。でもそれぞれに物語性があって、強く引き込まれた。親しい人が海で亡くなったことを歌った「Leaving Heaven」、今の戦争に駆り出される兵士の多くが未成年であるを歌った「少年兵ギラン」、アフリカの友人ナジャの歌、高江のことを歌った「青い魚」。どれも歌っているテーマが具体的で、個人的なエピソードと社会的なことがらを横断しながらつなげている。どれも悲惨な状況にある誰かの、その尊さを想起させるような歌ばかりだ。

そしてそれらを束ねるように歌われた「君は美しい」は、ポップネスを爆発させながらも迎合しない強さのある歌で、短編集のエンディングのように響いた。MCで話していた新しいアルバム(3枚組と言っていた)にはこれらの曲も入るみたいで、楽しみ。過去最高の作品になるんじゃないかという予感がしている。でも、同時にただ手放しで褒めるだけではなく、自分自身の政治性を問われるような、そういう作品になるだろう。それはいつもそうかもしれないけど。

「君は美しい」でライブは終わるのかと思いきや、聴こえてきたのは「Rollin’ Rollin’」のあのレコードが回転するようなイントロ。フェスではけっこう演奏しているみたいだから、お約束的な感じなのかな、とも思ったけど、それまでの「誰か」について歌っていた流れから考えると「ここにいる人たち」への歌だと解釈することもできるのかもしれない。

あと、この日も小さな子どもが絶叫したのを受けてセッションみたいにしたり、「旅人でらかわいい〜!」というローカルな声援を拾ったりしていて、七尾旅人のステージならではの客席とのやりとりも健在。だけど決して馴れ合いにはならず、適度な緊張感があって、この不思議なゆるい一体感は心地いいなといつも思う。

 

UA

右上半身と左下半身が蛍光色の黄色、左上半身と右下半身が銀色に色分けされたボディスーツのような服装で登場。その服装だけでかなりエキセントリックなオーラが出ている。数年前にフジロックで見たときも「やりたい放題」という言葉が頭をよぎる佇まいだったけど、カナダに移住して一体何があったんだ。でも遠目から見てもすらっとしていて姿勢が良くて、黒髪がきれいだったので、よくわからないけど健康的でオーガニックな日々を営んでいるらしいことは伝わってきた。

「ういろう食べたい!ウィローウィロー」と言いながら正拳突きをはじめたり、書き始めるとネタにしかならないのだけど、変人ぶってるわけではなくて本当に思いついたことをただ言っているだけという感じで、まったく意味がわからないのに不思議とピースな気分になれる。「のびのびやってこー!」みたいな感じでしょうか。もう、好きなように生きるっていうことへの吹っ切れ度合いが尋常じゃなくて、東京レインボープライドに出てLGBTに一切言及しないままライブを展開してもなんとなくみんな納得してしまうんじゃないかとか思った。

だけど音楽はやっぱり魔法のように良くて、特に後半の「スカートの砂」「甘い運命」はとろけるようだった。高校〜大学生くらいの時にUAはよく聴いていたのだけど、甘酸っぱい歌詞は大人になった今聴くと余計にぐっとくる。ラストが「電話をするよ」で、「内緒だよ 秘密だよ 少しだけ 僕は狂っているよ」のところでちょっと泣いてしまったりした。

 

 

藤原さくら

はじめて遊園地ゾーンに足を踏み入れた。案内があまり出ていなくて迷いつつ、神戸ルミナリエみたいなイルミネーションが輝く道を歩いていたら、遠くからかすかに藤原さくらの声が聴こえてきた。

ジプシーを思わせるホロ布でできたステージ付近はもうすでにたくさんの人がいて、少し離れた場所にある柵に腰掛ける。そばにいたビール売りのトラックの発電機がずっとガタガタうるさかったのだけど、その感じも含めて美しかったな。そういうノイズとか、唐突なイルミネーションとか、情報量が多くて、音楽だけじゃなくてこの時間を全身で感じている、と思った。めまぐるしいのに穏やかで、自分だけが些細なことに興奮しているような。そんな中で藤原さくらの牧歌的な歌声を聴いていると、勢いで家出しちゃったアメリカのティーンみたいな気分になりました…。映画のワンシーンのようだった。

 

トクマルシューゴ

金曜最後はトクマルシューゴ。一緒に行っていた恋人がすごく好きで、それで見たのだけど、自分としては「夢の中にある無印良品でかかってるBGM」みたいな印象しかなかった。だけどライブで実際に曲を聴いてみるとダイナミックで、しっかりバンドサウンドとして軸がある上で遊びの音を取り入れていて、楽しいステージになっていた。音自体は音源とはまったく毛色が違うのだけど、ドラムのちょっとオーバーなニュアンスとか、一種の過剰さはライブでも音源でも一貫していて、音楽性の芯が見えた気がしたなあ。

それと、なんとなくステージ上で鳴る音の一つ一つにまでこだわるようなタイプなのかなと思っていたら、MCではしっかりと楽しませようとしていたのが意外だった。ただ、どのエピソードも事前にしっかり考えてきたんだろうなあ、という雰囲気で、その真面目さがにじみ出ていておかしかった。なんとなく、森道は他のフェスよりアーティストの人柄に目がいく作りになってる気がする。

 

●5/12

■Otto & Orabu

鹿児島にある知的障害者支援センター「しょうぶ学園」の人々で結成されたボイス&パーカッショングループ。存在を知ったのはずいぶん前だけど、大所帯だし、障害がある人も多いから移動は大変だし、なかなかライブを聴ける機会は少ない。

決して大きくはないステージ上に、30人は超えていそうな人が並び、福森伸さんの指揮のもと思い切り声をあげ、打楽器を叩き鳴らす。ものすごい迫力だけど、無垢でもある。根源的で力強いけれど、カオスにはならない。それはのびのびと音を出すことが得意な障害者の方々だけでなく、福森さんをはじめ、バランスをとったり、流れを整えたりすることが得意なスタッフの方々が一緒に音を奏でているからだ。その融合はしょうぶ学園そのもののように思えるし、中庸的で、「障害者アート」のような枠にとらわれない対話のあるプロジェクトだと思う。会場も高揚していた。見られてよかった。

 

■蓮沼執太フィル

Otto & Orabuに後ろ髪を引かれつつ、ビーチのほうへ移動し蓮沼執太フィル。前の方へ移動する時「YES」が聴こえてきた。「YES」は環ROYの曲だけど、蓮沼執太がプロデュースしている。原曲の都市的なエレクトロニカアレンジもいいけど、フィルの骨太なバージョンも良い。今のところライブでしか聴けないから、聴けてよかった。それから「めでたい」(これも環ROYの曲)、「ONEMAN」などに体を揺らしていると、フィルから重大発表が。事前に蓮沼執太がツイッターで「発表があります!」とつぶやいていたから、Otto & Orabuを途中で切り上げたのだ。発表の内容は2ndアルバム&ライブのお知らせ。とても嬉しい。メンバーがそれぞれ文字の書かれたボードを掲げて発表するスタイルで、それがステージにすごく映えてよかったのだけど、写真を撮り損ねてしまった。「YES」入るといいなあ。

それから、アルバムからの曲といって「Meeting Place」、そして「Hello Everything」でラスト。いつ見ても変わらず、美しい風景を見たような、冷たい水を飲んだような気分にさせてくれる気持ちいいライブ。

 

■小島ケイタニーラヴ TOWAI〜青谷明日香〜折坂悠太

海辺ということもありけっこう日差しがきつくて、日中はずっとこのChillout Stageにいた。まずは恋人とご飯を買って、カレーを食べながら小島ケイタニーラヴとTOWAI。それから大阪に住んでいる友人と合流し、最近どう、みたいな話とか、昨日のUAのMCがおかしかったことなどを話し、青谷明日香。まったく知らなかったのだけど、財布の中に40円しかないって歌で「40円!」ってコールさせたり、キョンシーの歌でキョンシーダンスを踊らせたりととてもキャッチーで、とても和やかなステージだった。セトリもこの場で組んでいて、もともとはしっとりした格好良い雰囲気にしようと思っていたけどお客さんのノリがいいのでみんなが参加できる曲ばかりに変えたと言っていた。こういうところもすごく良いなあ。歌を歌うことだけじゃなくて、場を作ることを率先して考えている感じで。そんな中でも「異端児の城」はぐっときた。かまぼこ板しか興味がない男の子の話。かまぼこ板というところに青谷さんのセンスや、人のおかしみを肯定するような視点がしっかり宿っている。自分も本当に興味があるもの以外は興味がないと、こんな風に軽やかに言いたいし、バカにされた時にきちんと悔しがって、もっと自分の道にのめりこむような、そんな情熱を絶やさないようにしたい。

恋人も離れたところで聴いていたそう。森道が終わってからも、二人で家で口ずさんでいるのは青谷明日香の曲だ。もう、大好きになってしまった。

 

それからまた恋人と合流。テントの下で二人して横になって休んで、折坂悠太を待つ。折坂さん、背筋がすっと伸びた凛とした雰囲気に白い麻の開襟シャツがとてもよく似合っていた。両胸に黄色と薄むらさきで、花か木のような刺繍が施されているシャツで、きれいなシャツだなあ、どこのブランドなんだろう、と思いながら見ていた。顔だけを見ているとちょっと松田龍平のような、クールな印象なのだけど、はじまる前に知り合いを客席に発見した時に顔がにかっと崩れて、その少年っぽさがとても魅力的だった。

トクマルシューゴの時も書いたけど、「森、道、市場」はアーティストとの距離感がとても近い。中でもこのチルアウトステージは特にそうで、アーティストとオーディエンスが向かい合っているというより、同じ時間を共有している、空間をともに作っているという雰囲気で、パーソナルな部分がぐっとよく見える。それって音楽が何よりも上位にある「音楽フェス」ではなかなか起こりえないと思うし、あらためてこのイベントが稀有なものだと認識させられた。

 

ASIAN KUNG-FU GENERATION

 

アジカンって森道にいる人の現在の音楽嗜好からは少し外れている気がするのだけど、「リライト」ではみんな拳を突き上げて、思い思いに口ずさんでいた。それを見て、この会場にいる人たちの若い頃を間接的に知ったというか、ここにたどり着くまでの片鱗を見た気がした。それは、ロッキンやフジロックで堂々と鳴らされるのとはまた違う、重層的な響き方だ。

「久しぶりに聴いたけど、ゴッチの声も丸くなったね」という声が後ろから聞こえた。アジカン=青春≒過去、という図式はよくないし、そういう意味ではないのだけど、やっぱり彼らの曲が若者の心を震わせたっていうのは事実で、時を経てもその時のことを鮮やかに思い出させるような曲は貴重だと思う。ゴッチも「俺だってこんな海辺で”消してー!”とか言うの合わないと思うけど、でもみんな喜んでくれてうれしいよ」というふうに言っていた。実際、この場で「消してリライトして」という気分になっていた人はいなくて、みんなどこかでこの曲とともにあった時代のことを思い返していただろう。メッセージ性を超えた違う回路で、時を経てまた出会っている。印象的だった。最後は『ソルファ』から「海岸通り」。なんていうか、みんな海の曲をやるよね。「森、道、市場」なのに。まあ実際海があるからだし、別にいいのですが。

 

ORIGINAL LOVE

今回のフェスの個人的なトリ。田島貴男の盛り上げ方も暑苦しいほどに熱くホットなステージで、華やかなブラスとリズムに思わず踊ってしまう。帰りの時間があったので、途中までしか見られなかったけど、中日のメインステージのトリにふさわしい、残っているエネルギーをみんな出し尽くすようなパフォーマンスだった。自分は3,4曲やったあたりで会場を離れて、バス乗り場へ向かう途中の道で「接吻」が聴こえてきた。音を全身に浴びながら踊ることはできなかったけれど、雑音にまぎれて、風向きによってはっきり聴こえたり聴こえなかったりするその音に耳を澄ましながら、一緒に口ずさみ、疲労を心地よく感じていた。

 

 

来年は「市場編」も書けるといいな〜。

「森、道、市場 2018」愛知県蒲郡市 2018/5/11-12 感想Part1 思想編

「森、道、市場」に行ってきました。5月11日から13日まで、3日間開催される内の前2日。最終日は雨が降ったみたいなのだけど、僕が行った2日間は天気も良く、風も穏やかで、本当に良い時間を過ごした。

出演するミュージシャンが自分好みで、かつ入場料が安い音楽フェス、という認識で行ったのだけど、実際はそれとはちょっと違う印象だった。自分もそんなに全国各地のフェスをめぐっているわけではなくて、フジロックサマソニ、あと朝霧くらいなのだけど、それらと比べると明らかに異質。なので、各ミュージシャンのライブについての前に、その雰囲気について書いてみようと思う。

 

まず、どう異質なのかというと、徹底してエシカル。フードや雑貨のお店からびしびし伝わってくるオーガニックで本質的なこだわりもそうだし、お金を使わず、行為によって対価を払うような(こういう社会実験みたいなの、なんて言うんだっけ)エリアもあり、「社会にどう関わるか」をすごく考えさせられる。

そのきっかけとして誰もが直面することになるのが、トイレやゴミの処理の問題だ。些末なポイントに思えるけれど、「神は細部に宿る」というように、ここからこのイベントの思想の核が感じ取れる、と思う。

 

まず他のフェスのゴミ・トイレ事情を見てみると、みんな総じて浮かれていて、祭りの延長線上のできごととして看過している気がする。サマソニだと会場付近に潰れたハイネケンの紙カップが落ちているのをよく見かけるし、フジロックはゴミ捨て場に係の人が立っているから分別には厳しいものの、残飯を捨てるカゴには大量の食べ残しが捨てられている。

トイレは、サマソニはもともとの施設の水洗トイレを使っているのであまり問題はないが、フジロックはくみ取り式の簡易トイレ。そのため、期間の後半になるとトイレからはかなり嫌な匂いが漂うようになってしまうし、わりと大きな道のそばに男性の立ちションエリアがあって、それが黙認されていたりする。

では、森道はどうか。まず、ゴミに関してなのだけど、ビーチエリアはゴミ捨て場がそもそも用意されていなかった。ゴミはどうしたらいいんですか、とお店の人に聞くと「持ってきてもらえたら回収します」とのこと。フードを買って別の場所で食べて、そのゴミをまたお店に持っていかないといけないってけっこう面倒くさい。でも、それによって「おいしかったです」と一言伝えるコミュニケーションが生まれるし、食べ残しをゴミ箱に捨てる機会は格段に少なくなる。そこまで計算されているかはわからないけど、色々とブースを見ていたら「フードロス食材で作るピザ」の出店があったりして、主催側がそのことに関心を向けていることは確実だろう。

続いてトイレ。これは設備的にはフジロックなどと同じ簡易トイレだ。便器の上にゴミが放置されていることはたまにあったのだけど、清掃員の方が足もとを掃除したり、ゴミを回収したりしている姿を頻繁に見かけた。もともとゴミが捨てられていると、なんとなく自分のゴミを置いても大して変わらないような気がするけど、ゴミがまったくないところに捨てるのはちょっと憚られる。だったらここに置かないで、お店に返そうかな、と思ったりする。頻繁に清掃をしていたのは、そうした効果もあるのかも。このように、確実に利用するトイレ・ゴミ問題で、私たちの倫理性が問われる仕組みになっているのだ。

 

また、森道はスタッフの数がかなり少ない。基本、フェスってステージや入口の付近とか、ゴミ箱とか、至る所にスタッフがいるのだけど、森道はマジで全然いない。遊園地エリアになるとそこのスタッフの方がいるけど、それでも全然少ない。にもかかわらず、大勢の人を割いている他のフェスよりもトイレがきれいに保たれ、ゴミで道を汚すこともない、というのは、来ているお客さんの倫理観、あるいは共同体意識がきちんと機能している証拠だと思う。

 

ここで参照したいのが、主催・岩瀬さんへの「ジモコロ」によるインタビュー。

人気フェス「森、道、市場」の裏側には主催者の「熱狂」があった - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」

300近いマーケットを一人で管理しているというのは相当ヤバいのだけど、分割しないことでこのムラのない濃厚な空気感が形成されているのだろう。そしてこの中で、岩瀬さんは「利益を出すことが目的ではない」とも言っている。それはつまりいたずらに規模を拡大しないということでもある。そして、利益追求のために規模を大きくしたら、一つ一つへの対応がずさんになったり、一人ではまわしきれず、空気感が大きく変わっていくだろう。ただ、森道は最初の開催時に比べるとその規模が3倍くらいになっているらしく、それは逆説的だけど利益を追求しないやり方が満足度を高め、結果的に規模の拡大に繋がっているのだと思う。

 

また、記事中で岩瀬さんは森道は音楽フェスではなく「市場」であり、それゆえに入場料を安く設定している(入場に高いお金がかかるマーケットなんてないから)とも話している。「音楽で集客する」という発想なのだ。このニュアンスって、行くまでは僕も勘違いしていたし、「入場料がめっちゃ安いフェス」みたいなミスリードだけで客側に伝わるとそこが共同体の破れ目になってしまいかねない。それを考えると、これだけの動員で意識を共有できているのってちょっと奇跡的だ。いや、奇跡という言葉を使うのは失礼で、生産的ではないかもしれないけど。実際、これまでだって本質的なところを見誤らず、的確に進めてきたからこそここまで規模が拡大しているのだから。

 

色々と書いたけれど、ここまで共同体意識がしっかりあるイベントは、僕ははじめてだった。ちょっと取っかかりのなさを感じてしまったところもあるのだけど…。ただ、ちょっと話が飛躍するけど、こんな風に利益の追求を第一に掲げず、小規模な共同体の中で経済を循環させるやり方って、今後大きな経済成長が見込めないであろう日本にマッチしているし、もっと注目されるべきだと思う。そういう意味でも、すごく興味深かったです。

 

では、そういう偉そうなこと言ってる自分は具体的に市場で何を買ったのかというと、全然買わなかったんですけどね…。経済まわせよ!という突っ込みが聞こえてきそう…。いや、飲食はけっこうしたけど! 言い訳をすると、いかんせんリュックを常に背負っていないといけない状況だったので割れそうなお皿とか重い本とかを買い控えてしまったんです。良い感じのサングラスもあったんだけど恋人に「変だったよ」「似合ってない」と言われまくって買わなかったんだよな…個人的には気に入ってたのだったが。だから来年は車で、そしてもっと大勢で行きます。そのためには、キャンプエリアをもうちょっと拡充してほしいな…

長くなったので、音楽編はまた次回

もうここにいない人

去年の4月は父親がいつ死んでもおかしくないような病状で、気が休まらない日々を過ごしていた。季節がめぐったら思い出すだろうかと考えていたけど、毎日を慌ただしく過ごしていて、あんまり思い出すことはなかった。今年は暑くて、肌感覚が違っていたせいもあるのかもしれない。

その父はゴールデンウィークに逝った。だからこれでちょうど一年が経ったことになる。命日はみんなの都合があわず、数日遅れてお墓参りへ行った。一周忌って普通は何か式をやったりするのかもしれないけど、父がそういうのを嫌っていたこと、母親がお寺の住職に不信感を抱いていることなどから墓参りだけになった。雲一つないような晴天の日で、葬式の日もこんなだったなあと思う。骨壺を抱えて、助手席から見た青い空と沿道の鮮やかなつつじを覚えている。喪服が日光を吸って暑かったことも。

身内が死ぬことを、これまでに何度か経験しているけれど、正直いまだによくわからない。学生時代に祖母が亡くなった時は、そんなにお婆ちゃん子じゃなかったせいかな、と思っていたけど、父親が死んでもそんなに強く感情が動かされなかった。弱っていた最後を見ていたから、人はいつか死ぬ、ということには揺さぶられたし、不安やショックはあったけど、父の死そのものについてはよくわからない。父親には、それなりに色々と感情があったはずなのに。

昔は酔って家族にひどいことをたくさんしていたし、母親からも愚痴を聞かされて育ったから良い印象はなかったけど、それは彼のごく一部にしか過ぎなくて、人を疑ったような発言の裏には純粋さがあったことも大きくなるにつれ知った。姉妹が母親に絶縁を突きつけたとき、母親をそばで支えていたのも父だった。経営していた個人塾で、お金のない家庭の兄弟を1人ぶんの月謝で教えていたことも、塾をたたんだ後にかかってきた保護者からの電話で知った。

自分なりの方法で、好きになっていきたかったと思う。色々と知りたかったと思う。でも、遅かった。これから好きになりたかった人がいなくなるのは、好きな人がいなくなることとは違って、あまり寂しくない。

 

墓石に水をかけ、ぞうきんで磨く。姉たちは雑草を抜き、新しい花を供える。まだらに乾いた墓石の前で線香をあげて、立ち上る煙を見ながらごく自然に来てよかった、と考えている自分がいて、意外に思った。

 

翌日は恋人と母親をはじめて会わせる予定があった。家を出る前に仏壇で手を合わせて、父が姉たちの旦那や恋人にはじめて会った後は、甲斐性がないとか信用できないとか、いつも何か愚痴を言っていたことを思い出す。もし自分の恋人に会ったら、どんな愚痴を言っただろう。そう考えたら、少し泣けた。父がいないことが寂しくて泣くのは、多分はじめてだった。

 

いなくなってからも、関係は続く。この先も寂しいと思ったり、何とも思わないことにうっすら傷ついたりしながら暮らしていくのだろう。それは報われることのない気持ちだけど、その感覚に蓋をしたり、逆に固執したりせずに、自然でいたいと思う。もうここにいない人との対話は、自分に正直でいないと成り立たないものだから。

2018/5/2 小沢健二『春の空気に虹をかけ』日本武道館 感想

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九段下って武道館でライブを見るときくらいしか来ることがないので、楽しい思い出ばかりだ。同じように武道館に向かう人たちと、ぞろぞろと田安門をくぐる。今日は仕事が予定より早く終わったので、開場より早めに行ってグッズを物色。Tシャツもほしかったが「空虹回路」だけ、自分と恋人のぶんで2つ買い、来た道を戻って近所のカフェで本を読む。6時過ぎに仕事終わりの恋人と合流して、中に入る。事前に座席表で見ていた通り、ステージの真裏の席。ま、真裏……。でも、思っていたよりも近くてこれはこれで貴重かも、とか、何の楽器があるかとかを恋人と話していたら、友達から「見つけた」とLINEが届く。真裏の席だということを話していたので、探してくれたらしい。こっちも見つけようと人ごみに目をこらすと、右斜め前方にめちゃくちゃ手を振っている友人たちを発見。しかもボーダー。楽しい。

 

10分ほど遅れてはじまったライブは、照明が暗転したまま「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」の朗読で幕を開けた。それから2時間、最初から最後まですべてが輝いていた。36人編成ファンク交響楽の名に違わぬ音の分厚さで、ホーンやストリングスがとにかく音楽を、空間をきらきらと彩る。

事前に情報がもたらされていた通り満島ひかりもずっと舞台にいて*1、その存在感にも心を打たれた。真裏の席なので基本は背中しか見えなかったのだけど、肩を揺らしている後ろ姿だけでステージが華やぐ。普段背を向けているぶん、たまに振り返ると満面の笑みを見せてくれてとてもキュートでした。

その満島ひかりは序盤から「アルペジオ」の朗読やら「ラブリー」のデュエットやら、「僕らが旅に出る理由」でPVのオザケンのように服を鏡の前で合わせたり、歯ブラシで歯を磨くふりをしたりと大活躍だったのだけど、真骨頂は中盤の「いちょう並木のセレナーデ」だったと思う。今回、彼女の歌声はキーが高すぎるか低すぎるかで常に歌いづらそうにしている印象だったのだけど、この曲や次の曲「神秘的」のようなスロー・テンポの曲では安定していて、繊細で張り詰めた声の魅力が最大限に発揮されていた。「いちょう並木のセレナーデ」ってそんなに思い入れがある曲ではなかったのだけど、まるでこの曲にまつわる恋愛の記憶があるみたいにぐっときて、ちょっと泣きそうになってしまった。

「いちょう並木のセレナーデ」の前にオザケンはMCで「雨が降ってきましたね。まあ野外だから仕方ないけど」と、武道館が三島由紀夫の『金閣寺』みたいにロックファンに放火されて野外劇場になったという架空の、あるいは並行する世界の話を飄々と語っていたのだった。その流れからの傘と光(クリスタルのような、乱反射する透明な石)を使った雨の演出や、楽器隊がオザケン満島ひかりに向かってシャボン玉を吹く姿もファニーでロマンチック。今回の舞台演出は全体的にミニマルで、他にあったのは満島ひかりオザケンの四方にスタンドを立てて、その周りを回りながらピンクと黄色の糸を巻きつけていく(「いちごが染まる」)とか、満島ひかりのドラムパッドが会場の照明と連動していて、彼女が叩くと雷鳴が轟いたように武道館が明滅する(「フクロウの声が聞こえる」)とか。あと、どういう仕組みなのかわからないけどステージには常に一筋の虹がかかっていた(プリズムがどこかにあったのでしょうか?)。演劇や能舞台のように抽象的な演出だったけど、大掛かりな映像や派手な舞台セットを使わないところに、ファンの想像力への信頼が感じられる。そしてその想像力の呼び水として、役者・満島ひかりは必要不可欠なピースだったのだと思う。

 

僕がオザケンのライブを見たのは前回の「魔法的」以来だった。あのときは新曲を披露することが事前にアナウンスされていたし、今ほどコンスタントに活動していなかったから、妙な緊張感があったのだけど、「春空虹」ではそういうこちらが謎解きをしたくなるような思わせぶりな作為がなかった*2。そして多くの人が胸を踊らせる「LIFE」期の楽曲や「強い気持ち・強い愛」「戦場のボーイズ・ライフ」などのシングル曲をふんだんに披露しながら、「アルペジオ」にはじまり「フクロウの声が聞こえる」を「36人編成の真骨頂のような曲」と紹介し、本編を「流動体について」*3で締めるという、今のオザケンの曲を中核としたセットリストで、今の曲も昔の曲も関係なく、みんなをめちゃくちゃ歌わせていた。真裏の席からステージ越しに見た砂かぶり席の人たちの顔ぶれは多様で、でもみんな幸せそうだった*4

コンセプチュアルになりすぎず、ただただみんなが楽しんでいる、非日常の熱狂。でも消費を促すだけのサービス精神とも違う。たとえば「男子の気分の人は男子!、女子の気分の人は女子!って叫んだら一緒に歌ってください」という煽り。セクシャルマイノリティへの配慮が感じられる以上に、「気分」という曖昧な言葉を使うことでそれは越境しうるものであって、線引きに意味はないのだと示しているところが素晴らしい、と思う。そこから逃れられない社会で生活していることは事実だけど、その構造を疑ってみるような気づきを軽快に投げかける。そして「意思は言葉を変え/言葉は都市を変えてゆく」。私たちはこの日常の裂け目の中で「良いことを決意」して、生活に帰っていくのだ。

*1:4/23の東京国際フォーラムでは写真家の奥山由之も参加していたようなのですが、この日は不在。このブログに上げている画像は4/23の奥山由之撮影の「いちょう並木のセレナーデ」です。出典:https://rockinon.com/news/detail/175459 

*2:「魔法的」では本編の最後に「その時、愛」という新曲が披露されたのだけど、この曲には「ライブ会場で覚えた新しい歌を帰り道に口ずさんでみる」というような歌詞があって。その”新しい歌”がこの曲になるのだと言わんばかりにサビを観客に歌わせるという演出をされて、「ちょっと作為的じゃないですか…」と拍子抜けした、ということがあった。それに比べて今回はみんなが好きな時に歌っていたので、帰り道はそれぞれの歌を自発的に口ずさんだでしょう。

*3:しかもその前に披露されたのは「ある光」!

*4:ちなみに真裏の席はステージのそばだからなのか音が良かったし、なんだかんだ近いので振り返ってさえくれたら表情までしっかり見えたし、砂かぶり席で「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディーブロー」「ドアをノックするのは誰だ?」を口ずさみながら楽しそうに踊っている姿が見えたのもぐっときたしで、自分はまったくハズレ席とは感じなかった。オザケン満島ひかりの足元にディスプレイがあって、そこに次の曲名が表示されてネタバレになってしまうのだけは残念だったけど……

Spring has gone(四月の記憶)

最近はTwitterに疲れてしまって、つぶやくことをほとんどやめてしまった。笑い事にしていいのか?と思うようなニュースに対して、露悪的な意見にうっすらとユーモアをまぶしただけ(それによってより下品になっている)のような感想ツイートがすごい勢いで拡散されているのをみると、力が抜ける。しかも悪意があるわけではなくて、当事者意識がないからそうやって面白がれるのだ。その観客的なスタンスがしんどい。有意義な情報も多いし、替わるものもないから今後もここから色々と情報や考えを得るのだと思うけど……。

それだけ言っておきながら、その「Twitterで読まれる」ことを過剰に意識していると思う。意識しているけど、意識したくない、というせめぎ合いがあって、考えなしにつぶやくことができないし、疲れるわりに別に誰の目にも留まらない。このブログもそれ以上に読まれていないのだけど、何より自分のために書いている、という意識があるから別に良くて。

だから何か心を動かされる音楽や文章、できごとがあった時はブログに書きたいな、と思うんだけど、どうしても落ち着いて書きたいし、少し時間がかかってしまうから、色々と逃してしまうのが今の課題でもある。

ということで4月後半にあったことを雑感として色々と書きたいのですが、まず音楽でいうとコーチェラのビヨンセである。当日は見逃してしまい、数日後にニコ動で見たのですが、画質がかなり悪いにもかかわらずその迫力は十分に伝わってきて、生で見ていたらどんなに興奮しただろうと思った。実験的なというわけではなく、誰もが熱狂するほどダイナミックでポップ。最高のエンタメでありながら決して消費されないもの。そして歴史を背負い、切り開こうとしている。これができるのは今この人しかいない、ということをやっていると思う。感動してしまって、見た後しばらくは「こんな時ビヨンセならどうするか?」という判断基準で生活をしていた。具体的に何をしたかというと、ジムでいつもより1km多く走ったくらいです。

あとは宇多田ヒカルの「Play A Love Song」と小袋成彬の『分離派の夏』でしょうか。ジャネール・モネイの新作など、今週は聴き込みたいリリースがたくさんあった。『分離派の夏』は全体的にフランク・オーシャンともリンクするインディR&Bっぽさと内省で、ものすごく今の感覚を捉えた一枚だなあと思う。ロンドン、台場、グアム、サンティアゴ茗荷谷などの数々の場所が散りばめられ、歌詞の内容もその街での記憶から学生時代の頃、長い一人暮らしを経た現在のことまで複数の時代を行き来する。それはあくまでも表層的なことなのだけど、本当に半生をかけて作り上げたものだという、生きてきたことの密度の濃さが生々しく全編に漂っている。平易な言い回しだけど決して冗長にならず、感情を浮かび上がらせる言葉選びには宇多田ヒカルの息吹を感じる。

その宇多田ヒカルの新曲「Play A Love Song」は、もう歌詞がすごすぎてはじめて聴いた時泣いてしまった。リリースされたのがちょうど昨日書いた暗い記事のことを考えていた時で、その不安を浄化するような内容だったのだ。すべての行に自分がかけてほしかった言葉があるし、誰かが落ち込んでいる時にかけてあげたい言葉だった。ちょっと自分が文章を書く必要はもうないかも、と思ったくらい。

宇多田ヒカルは聴いている人の悲しい気持ちや時間を否定しないし、「雨が上がって虹がかかる」みたいにそれが糧になるとも言わない。未来に繋がらない悲しみにくれる時間はある。ただ、それが世界のすべてではないよ、と言ってくれているように思う。そういう意味では「泣いたって何も変わらないって言われるけど/誰だってそんなつもりで泣くんじゃないよね」と歌ったデビューの頃からその精神性は何も変わっていないのだ。

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あと、最近はすばるの『ぼくとフェミニズム』特集を読んでいます。原稿はエッセイ、対談、評論など種類によって前後はしながらも、概ね五十音順に並べられていて、最初はそれに違和感があった。次の原稿で全然違う意見が出てきたりするからだ。有機的に配置されていないというか……。ただ、読み進めていくうちに敢えてそれぞれが結びつかないようにしていることに気づく。これはあくまで「ぼく」、つまり個人とフェミニズムの関係であって、「ぼくたち」=男性として連結してしまうと途端に意味が変わってしまう。男性はフェミニズムの世界では抑圧者としての側面をぬぐいきれないということもあるし、フェミニズムの現在的な意味が性的少数者や様々な差別の問題と結びついて個を尊重するという考えになってきていることを考えると男性vs女性という構図になりうる可能性は排除しなければならないからだ。*1

まだ途中までしか読めていないのだけど、自分が一番共感したのは杉田俊介さんや滝口悠生さんらのもの。そこには、自分たちが男性であること、それにより、自分の思想にかかわらず社会的には些細な場面でも何らかの利益を受けているという自覚がきちんとあると思う。自分がぼんやりとしか考えられていなかったこの視点を、しっかり言語化している人が複数人いたことはすごくよかった。僕自身はゲイなので、(細分化されているとはいえ)マイノリティということで親和性の高いフェミニズムに入れ込むことができないのはこのポイントが大きいのだと思う。職場などカミングアウトしていない場所もあるし、初対面の人にいちいち自分の性的嗜好を言うことはない。でも、社会的なバイアスとして「男性であること」で絶対に何か恩恵を受けているから、自分のことを一概に社会的弱者だとは思えないし、女性たちと完全に同化するわけにはいかないのだ。

それにしても、色々と本を読むたびに現代的なゲイたちの苦しみはフェミニズムだけじゃなくて、男性学的な視点で解放されるものがたくさんあるんじゃないかと思う。男らしさを外側から眺めたり、ホモソーシャルな世界に馴染めないことは敗北でもなんでもない、ときちんと知ることで、日常的な苦しみを取り除ける場合もあるんじゃないかな。

 

*1:2018年5月追記:このあと、武田砂鉄さんの評論『「いつもの構図」を脱却する』を読んで、この部分、ちょっと誤読してたかもと思う。「ぼくたち」としないことは連帯を回避しているけど、「ぼく」という一人称は一般的に男性のものであり、むしろ男性vs女性とすることで可視化される社会的なものを炙り出そうとしているように見える

感じ方/伝え方

差別的なことや、嫉妬や、軽蔑といった感情が、自分の中にはいつも渦巻いている。立派な人をみると、その人の良いところを真似するより、その中にある大したことのない部分を見つけて安心しようとする。傍目では謙虚に見えるように振舞っているけれど、その中にあるのは卑屈さだ。自尊心の低い人は、時に勝ち気な人よりもずっと傲慢だと思う。

多分、その性質はそう簡単に変わるものではないのだろう。だから自分とうまく付き合っていく方法として、胸の内に浮かぶものを裁かない、というやり方を採った。醜い感情が湧き上がることを許しながら、一方で、それを他人にぶつけることを禁じた。差別的ではないか、相手の心を切りつけるためだけの表現になっていないか、可能な限り検分する。その前にどんな逡巡があっても、僕という人間が何を肯定しているかは、目に見えるかたちで現れる。

そんな格好良く言い切れるほどうまくできてはいないし、イエスと言ってしまっているような状況だけど本当は違うんです、と言い訳したくなることもたくさんあるのだけど、これが自分にとって一番フィットするやり方なのだと感じる。

 

でも、そんな原理で動いているのに、人が何を考えているのかいつも深読みしてしまう。行間や、考えてもわからないような微妙な表情ばかりを読んで、この人は本当に信用して良いのか、今の発言で嫌われはしなかったか、いつも気にしている。言葉をただ額面通りに受け取って、関係が成立するほど人は単純ではないけれど、それにしても疑いすぎだ。

何より問題なのは、自分の胸の内は許したのに、他人の胸の内に立ち入ろうとしていることだ。自分にとって感じ方よりも伝え方が大事だと思うなら、人に接するときだって同じように尊重すべきではないか。致命的で、都合が良い矛盾だと思う。そしてその矛盾を成立させているのは、自分がどう思うかに価値を見出さず、相手にどう思われているかばかりを気にしている、自信のない自分なのだ。

 

どんな風に感じるかと同じくらい、それをどうやって伝えるかということも、その人を形作る大きな要素だ。それなのに、感じ方のほうにばかり真実があると思ってしまうのはどうしてだろう。

相手の感じ方と、自分の伝え方にばかり気を取られていた気がする。でも、それだけでは不完全だ。わずかな声の震えや、眉の動きとかに「本当の気持ち」の発露を探すことに終始するのをやめよう。もっと相手の伝え方をよく見て、そして自分の感じ方をしっかりキャッチしないといけない。自尊心も、コミュニケーションも、そこからはじめないといけない。