よく見える日々

昼食を食べて部屋に戻ってきたら、隣のマンションの屋上にある室外機の羽がゆっくりと回転しているのが見えて、それがどんよりとした空模様とよく似合って綺麗だと思った。ここ数日、こういう日常のほんの瑣末な風景に見とれることが増えた。といってもなんてことはなくて、単にコンタクトレンズの度数を上げたのである。

コンタクトの度数はもうずいぶん前から変えていなかった。ネットの通販なら処方箋をもらわなくても買えるから眼科に行くこともないし、会社で健康診断をやってくれないので視力を測る機会もない。そもそも困るほど見えないわけではなかった。でも、最近少し遠くの文字が読みにくいことがあるし、毎日パソコンに向かいっぱなしで仕事をしているのだから目が悪くなってもおかしくない。それで、ちょうどコンタクトレンズがなくなるタイミングで眼科へ行って、ちゃんと処方箋を書いてもらった。

まず、古いコンタクトで視力を測定する。その時点で「1.0ありますね」と言われ、(えっ、全然悪くないじゃん、作り直すのやめようかな)と思ったのだけど、こちらが何か言うより早く「まあでも見えにくいと行って来られてるし、上げていきましょう(視力を)!」と言われ、なすがままサイボーグみたいな眼鏡にレンズをはめたり外したりされながら「右」とか「下」とか答えていた。最終的に、レンズの度数は両目とも1.25ずつ上げられることに。0.25刻みなので、5段階も上げられたことになる。眼科にかかる前でもまあ2段階上がるくらいかな、と思っていたのに。そもそも視力が1.0あったのにそんなにジャンプアップしていいのか。半信半疑だったけど、とりあえず新しく用意されたコンタクトを装着したらめっちゃ見える。ついさっきよりも世界の輪郭がシャープになった感じだ。今の視力がいくつあるのかはわからないのだけど、木の枝についている若葉の数を数えられるくらいとにかくはっきり見える。そして、色んな細かいものがよく見えるのって発見がいろいろあって楽しい。同じ道を歩いているのに、違う景色を見ているみたいに新鮮な気持ちになれる。あと、見ているものが全然きれいなものじゃなくてもなぜか感動してしまう。すれ違った女性のアホ毛の細さとか、電光掲示板に映る文字の尖り具合とか。これは何なんだろう? 映像や写真でも、何でもないものでも超高画質で撮ると妙に綺麗に感じて感動することがあるけど、それに近いのだろうか。でも、そもそもどうして高画質だと感動するのか、というところはよくわからない。ネットでも調べてみたけどそれらしい答えにたどり着くことはできなかった。すごく気になる。

 

しかし人の目は生まれた瞬間から刻々と劣化し続けているというので、このよく見える日々もそう遠くないうちに終わるのだろう。あるいは、慣れてしまって感動しなくなるか。そうなる前に色々なものを見ておこう。そして次もっと視力が落ちたらまた度数を上げれば、再びよく見える日々を迎えられるのだ。そう考えると、目が劣化していくのもあながち悪くないかもしれない。

Kylie Minogue『Golden』感想、あるいは年齢を重ねることを恐れない人

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まだ冬のうちに公開された「Dancing」を聴いて、ノスタルジックなギターの音に惹かれた。どんなアルバムになるんだろう、と楽しみにしていたカイリー・ミノーグの新作『Golden』を、春の夜らしい涼しさの中で聴く。

カントリーテイストを取り入れたダンス・ポップには、これまでのような眩しさはないけれど、それでも彼女らしいきらめきが音の中に散りばめられている。歌声も艶がありながら、時折深みのある表情を見せる。落ち着いているけれど、そのぶん広い視点で人生を振り返り、そしてこの先を見つめているように感じられる。

人生やノスタルジーを持ち出したくなってしまうのは、単なるカントリー・ミュージックのマジックなのかもしれない。でも、その魔法もカイリー本人にその気がなければ起こせないだろう。

 

女性であることを謳歌しながら、年齢を重ねることを恐れない。生き続けることで、若さとは違う価値が芽吹いてくるのを信じている人。最近のカイリーには、そんな印象を抱く。まず、2012年にセルフカバーアルバム『The Abby Road Sessions』を発表。オーケストラを従え、過去のクラブヒットをフォーマルにドレスアップさせるとともに、長く歌い続けられるリアレンジになっていた。ある意味今作『Golden』も、若々しさに頼らないという点ではこの試みと地続きだろう。

では、2014年のアルバム『Kiss Me Once』はどうか。ここでカイリーはかつてのように、セックスシンボルとしての扇情的な表現を展開している。この作品は「この年齢にもなって性愛のことばかり歌っているのは軽薄」と、レビューサイトや音楽誌からは否定的な声もあったと聞くのだけど、性愛について若者しか歌ってはいけないというのはすごく表層的だし、そもそもたまには性愛のことばかり歌ったっていいじゃん、とも思う。

 

www.youtube.com

それにカイリーの場合は、その表現が必ずしも若者のためのものではない。「Sexercize」のPVでは鞍馬やバランスボールを使ったエロティックなエクササイズをする姿が映されている。これは奔放さではなくて技術や体型の維持によって快楽を得ようとするもので、当時40代半ばだったカイリーがやるからこそ意味があるもののように思う。同じく性愛を歌った「Les Sex」もビートがスポーティーで、いやらしさが少ない。

余談だけど、このあたりは同じくアイコンとして比べられることも多いマドンナとは対照的だと思う。マドンナが2015年に発表した最新作『Rebel Heart』には、彼女はニッキー・ミナージュをフィーチャリングした「Bitch I'm Madonna」という曲があったり、「S.E.X」という曲に喘ぎ声を入れたりしている。カイリーがレディに転身したのに対し、マドンナはビッチであり続けているのだ。それはそれでパワフルで良いのだけど、若さに固執している感じもして、見ていて苦しくなることもある。

 

とはいえ、カイリーも最初から加齢を受け入れたわけではなかったようだ。調べる中で、カイリーのボトックス注射に関する記事を見つけた。

https://news.walkerplus.com/article/107811/

ちょっとタイトルやニュアンスがひどいのでリンクしたくないのだけど、参照元を貼らないのも嫌なのでURLだけ貼っておく。記事によればカイリーは2009年にエル誌のインタビューで「若くいたいならボトックスでもなんでも試してみればいいと思う」と発言。しかし2010年には「今はボトックスはやっていない。もっとナチュラルな方法に頼るようになった」と言っている。そして2017年の春にはThe Australian誌で、「エンターテイメント業界にいるプレッシャーから、過去にボトックスを過剰に使用してしまったことを認めざるをえない」「昔と同じような感覚でランジェリーのコマーシャルにでることはないけれど、年齢でファッションを制約したくない」と語ったという。

とにかくカイリーが劣化した、という方向に持っていきたがっているゴシップ記事だけど、この「昔と同じような感覚でランジェリーのコマーシャルにでることはないけれど、年齢でファッションを制約したくない」という発言、前後の文脈はわからないけど超かっこいいのではないか。年齢を受け入れながら、若々しくい続けるのを諦めないことはできるし、籠城戦のような美との付き合いから自由になった人は、とても気品があると思う。そのステージを降りることは敗北ではないし、むしろ降りた者から新しい地平を開いてゆける。その姿を、カイリーはまさに「Dancing」のMVで体現している。


Kylie Minogue - Dancing (Official Video)

 

『Golden』のタイトルトラックには、こんな歌詞があった。

”We're not young, and we're not old

We're the stories not yet told

Won't be bought and can't be sold

We are golden”

「私たちは若くない、でも年寄りでもない/私たちはまだ語られていない物語/買われることも売り渡されることもない/私たちは輝いている」。年齢を重ねることは人生を背負うことでもあるし、そうするからこそできる輝き方もある。カイリーの新しい物語を祝福したい。

ランニング・マシーンの恐怖

緩やかに体重が増え続け、体のシルエットが変わっていく現状に歯止めをかけるべく、ついに今月からジムに行き始めた。入会したのはここ数年で一気に増えた、いわゆる24時間ジム。昨日は仕事が終わってから23時半くらいに行ったのだけどけっこう人がいて、東京はすごいな、と思う。

今のところ単純に体を動かすのが気持ちよく、マシンを使って筋トレをするのは日々のデスクワークでごりごりに固まった肩にも効きそうで、まだ2回しか行ってないけどみるみる健康になっている感じがする。どんだけ体動かしてなかったんだという感じだけど……。

自分の自信のなさは身体的なコンプレックスからきているところもあるなと思うので、それによってどう心象が変化していくかも観察したい。筋肉がついたことで妙に自信満々になったりする人いるじゃないですか。あれって単純に筋トレがストレス発散になるというだけではなくて、絶対に自己肯定感が高まっているんだと思うんだよな。あと、「筋肉はオカマのドレスよ」という新宿二丁目に伝わる格言があって、まああの業界はルッキズムえぐすぎ、と感じることも多いのだけど、とはいえ世の中のシャツやジャケットはお腹周りがすっきりしていて胸筋がほどよくあったほうが様になるのも事実なわけで、良いと思った洋服を試着してみたら全然似合わない、という「洋服からの拒絶」を減らして日々を楽しくするためにも、美しい体でいたいな思う。ただ、いま美しいと言いましたがその基準は一律ではなく、自分らしいかどうか、自分で自分を好きになれるかどうか、が大切だと思います。自分の場合はその基準が一般的な像と重なるというだけで。

 

ルッキズムやコンプレックスの話はおいおいしていくとして、今日話したいのはランニングマシーンである。実はランニングは去年の冬〜春にもやっていて、その時は外を走っていたのだけど、ある程度習慣づいてきたかな、というタイミングで父が倒れ、慌ただしくしているうちに夏になり、暑くてとても走る気にならず……という感じで途切れていたのだった。

実はそのマラソンの大会に、6月に出ることになったのである。去年の10月にも5キロの短い大会に友達と一緒に出ていて、それ以来一度も走ってなかったのだけど、今度は10キロ。そもそも10キロも続けて走ったことがない。だからその練習も兼ねて入会したところもあったのだった。

ランニングマシーンでは後ろに流れていくベルトの上をひたすら走る。ベルトが流れていくスピード=時速はパネルで0.1km単位で調整できるのだけど、この構造に対して妙な恐怖心を抱いてしまう。自分が何の支障もなく、同じスピードで走り続けられるという自信がないのだ。外の道を走っていた時はコンディションなどで自在に速度を緩めたり早めたりすることができたけど、ここでは速度を変えるためにはパネルを操作しなくてはいけない。パネルを操作するのはそんなに難しくないし、実際自分も走りながら緩めたり早めたりしているのだけど、何があるかわからない、という緊張感が拭えなくてちょっとパニックになりそうなことがある。しかも多少猶予があったらいいけど、ベルトは短いので1秒も止まっていたら滑り落ちてしまうし。あのベルトがもう2mくらい長かったら、気持ちが違うのかもしれない。

要するに自分の身体能力とか、瞬発力に不信感があるのだと思う。信じていようといまいと、いざという時は意外ときちんと発揮できるものなのは知っているけど、頭で考えるともうダメ。同じ理屈で、楽器とかダンスにもすごい苦手意識がある。昔はピアノやってたのになあ。ああいうのって頭も使うけど、基本的には体が覚えるもので、でも自分はその「体が覚える」がうまく理解できないんだなあ……と、運動神経のなさ、そしていかに自分が日々頭でっかちになっているかを噛みしめる。何も考えちゃダメだ、考えちゃダメだと思いながら、きっとまたベルトの上を走るのだろう。ベルト、外の道路と違って弾性があるので足への負担が少なくて、たくさん走れそうなのはすごく良いんだけどね。

回復のための語り

「語りと回復」というテーマが、最近の大きな関心ごとになっている。その中で、上岡陽江さんと大嶋栄子さんの共著『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』という本を読んでいたら、こんな文章があった。

”「何があったかという説明よりも、そこでどう思ったか、どう感じたかだけを話せばいいから」と言います。「言葉にならないけど大変なことがあって」とか、「今はまだ言えないけれどとてもつらかった」のように、経験をカッコのなかに入れるような話し方を教えたりもします”

上岡さんはダルク女性ハウスの代表で、自身も薬物やアルコール依存の当事者でもある。大嶋さんは心に病気を抱える女性の生活支援を行う場を提供するNPO法人リカバリーの代表。アルコール依存や自傷癖、精神障害などを持つ女性を長年にわたってサポートしてきた二人が見てきた、女性たちの姿や、彼女らを取り巻く問題点などについて書かれている。

この本全体の趣旨としては、上岡さんと大嶋さんがこれまでに関わってきた女性嗜癖者の姿をもとに、彼女たちの多くが幼い頃から虐待などなんらかの高い緊張を強いられる状況にあったこと、それゆえの考え方の傾向があり、サポートする人はどのようにするべきか、何に気をつけなければいけないのか、を綴ったものだ。タイトルにある「その後」とは施設や自助グループといったその人を支えてくれる場所とつながった状態のことで、そこに繋がったらハッピーエンドで上り調子に回復していくわけではなく、まだまだ困難や不自由は続く、それをどう生き延びるか、という本である。

なので、あくまでも当事者の彼女たちとその援助者に届くことが重要で、ここで得た知見を一般化する必要は必ずしもない、ということは断っておかなくてはならない。でも、そういう人以外でも当てはまるような部分が多くて、この本のペルソナになっている方々に読まれるだけではもったいない、と感じたのも事実だった。

引用したのは、この本の中の小さなコラムのひとつ。上岡さんはこの中で、トラウマ体験を深く語ることは回復につながらない、むしろはじめに深く語ることで、その記憶が現在と結びついてしまって、せっかく繋がれるかもしれない場所や人を失う可能性もある、と書いている。そして、回復につながるのは起こったことを説明するよりも、「その時どういう気持ちだったか」を話せるようになった時であることが多い、と続ける。

 

去年は自分だけの問題ではないので起こったことを詳細に書けないけど、めちゃくちゃしんどい、というできごとが立て続けに起きた年で、そういう時は自分は事実をぼかして感情の部分だけを吐き出すようにしていた。やっぱりあれは回復という観点では有効だったのだ、と確信を得る半面、ぼかして書いている自分をどう評価していいか揺れる気持ちはやっぱり残った。

それは、自分が人文系エッセイをよく読んでいるからだろう。もともとこのジャンルはどれだけ私生活や考えをさらせるかという、自己開示の覚悟がモノをいう世界だった。だから、ぼかして書いている自分には、人を傷つける覚悟も、自分が傷つく勇気もない。そんな風に感じてしまうのだ。

特に、ここ1,2年はさらにギアが上がった気がしていて、刺激的なストーリーがより強く求められている感じがある。ゴシップ的というか。もちろん、状況の過酷さに比例してその人の考えも研ぎ澄まされる傾向にあるので、一概にストーリーだけで評価されているとは言えないのだけど……。そしてそういう一冊は書き手の人生が乗っかっていて、やっぱり名著が多いからなんとも難しいのだけど……。

 

うーん、うまく話がまとまらない。自分の中で評価が揺れてるんだから当たり前な気もするが。ただなんというか、書き手と読み手の共犯関係に、少し疲れてしまっている。好奇心をそそるのではなく、その人の回復のための語りというのを尊重したいし、それを尊重しながらものを書く上で、人生をどれだけ晒せるかというベクトルとは別の道を探したいと思う。

 

その時に参考になるのは、『その後の不自由』にもあるような当事者研究の言葉であったり、あるいはここで書いた星野概念さんや、桃山商事の『生き抜くための恋愛相談』のような姿勢なのかもしれない。まだ具体的なところは何も考えられていない、予感程度のものだけど……なんて考えていたら、来月B&Bで星野さんと桃山商事の対談があることを知った。さっそくチケットを購入。移転してからB&B行けてないし、楽しみ。

にぎやかな公園

今住んでいるマンションの前には公園がある。代々木公園とか井の頭公園とか、そういう大きなものではなくて、だけど子どもが十分に駆け回れるくらいの広さがある公園。

平日の午前中は、子どもたちのはしゃぎまわる声が、部屋にいてもかすかに聞こえてくる。休日は平日ほどではないけれど、前を通りがかると親子連れや老人などがたくさん集まっているのが目に入る。都心は申し訳程度にブランコがあるだけの、鬼ごっこも難しそうな規模の公園がわりと多くて、そういうかえって街を寂しく見せてしまっている公園もある中、ここにはいつでも人が集まっている。

いつも、にぎやかな公園はいいなあと思う。突拍子がないようだけど、自分は本当はどんな人も愛したいのだ、なんてことを考える。関係性の中で憎悪は生まれるけれど、何も自分と接点がないゼロの人に対して、基本的には優しい気持ちを持っていたいと思ってるんだな、ということを確認できて、ちょっと安心する。それは新宿駅のホームや、渋谷のスクランブル交差点にいる人に対してはあまり思えないのだけど。

 

公園に植えられている木を見ながら、桜だったらいいね、と恋人と話していたのだけど、まだ何の花も葉もつける気配がない。街のあちこちが色づく季節を迎えて、期待が外れて良かった、と少し思った。

ジム・ジャームッシュ『パターソン』、冨永昌敬『南瓜とマヨネーズ』感想

もう水曜日のことになってしまったけど、目黒シネマで『パターソン』『南瓜とマヨネーズ』を見た。僕が恋人と一緒に映画を見に行こうとする時、こうしたヒューマンドラマ系は「DVDでよくない?」とやんわり却下されてしまうのだけど、今回は恋人のほうからこの2本立てを提案してきた。どちらも気になっていたけど見逃していて、『パターソン』は前日にNetflixで探してヒットせず、DVD借りるしかないかあ、と思っていたところだったのでうれしい。

昼をまたいでの上映になるので交差点のファミマでサンドイッチやら飲み物やらを買い、劇場に入る。寒の戻りのような雨の日で、客入りはそこそこ。座るなり恋人が「目黒シネマって好きな場所トップテンに入るな」とつぶやく。1位は豊島美術館でしょ、と当てるとうれしそう。あの静けさとつるつるとした肌触りを思い出す。また行きたい。

 


パターソン(字幕版)

まずは『パターソン』。アダム・ドライバーの表情が絶妙。あの奔放な妻・ローラに対して怪訝な表情を浮かべているのかと思いきや出てくるのは肯定的な発言だったりして、その読めなさに最初は戸惑った。でも、映画を見ているうちに「ああ返事はそっけないけど気分が悪いわけではないのだ」ということが理解できてきたりして、すごく人間くさい演技だなあと思う。アダム・ドライバーってとても魅力的なのだけどちょっと『テラフォーマーズ』に出てくる人型ゴキブリに似てて、要するに(?)無表情の時の「無」の度合いがすごい。でも、その朴訥とした感じがパターソンの人物像にぴったりだし、だからこそ少し口角が上がったり目が陰ったりするのを見逃したくないと思わせる。そしてその微細な変化に目を向けるというのは、映画のテーマにも重なってくる。

『パターソン』は詩を書きながら暮らしているバスの運転手のある1週間の話で、パターソンとは主人公の名前であり、映画の舞台になる街の名前でもある。パターソンは毎日6時過ぎに起きて、隣でまだ眠っている妻のローラの肌に口付けて、腕時計をはめて、家を出て、始業前にバスの運転席でノートに詩を綴り、乗客の言葉に耳を傾けて、日が暮れる前に家に帰って、なぜか傾いているポストを直して、ローラの作ったご飯を食べて、犬の散歩に出かけてバーで一杯飲んで、家に帰る。あらすじにしてしまえばまったく同じになる日常を、パターソンは繰り返している。でも、たとえばバスの乗客のおしゃべりや、夜の散歩の途中で出会ったラッパーの言葉、詩を書いているという少女が読んでくれた詩の響き、バーにいる恋人たちの別れ話……そういったあらすじからはこぼれ落ちる些細なものごとが日々を彩っていて、パターソンはそれらに静かに美しさを見出している。

正直にいうと、寝不足だったこともあって途中ちょっと寝てしまったのだけど、この退屈で穏やかな時間の流れを、かけがえないと思った。シーン一つ一つに意味や意図があるのかもしれないのだけど、そうしたものを漏らさず観察することよりも、たっぷりとした時間が流れていくことが大切にされている感じ。そして意味の答え合わせではなく、解釈に景色が委ねられる時、私たちは詩人になるのだとも思う。

そんな退屈だけど充足した日々が木曜日までは続いて、金曜日は少しいつもと違う。バスが故障してしまい、パターソンは道の途中で乗客を下ろして立ち往生してしまう。落ち込んだパターソンが家に帰ってことの顛末を話すと、恋人は「新しいバスを買ってあげるべきだわ」と言い、彼は「それはないよ」と返す。パターソンは時代に抗うようにスマホを持っていないし、何か古いものに固執しているように思える。この一種の諦めのような仄暗さはなんなのだろう。映画を見終えてからもずっと考えていたのだけど、ナガさんという方のこのブログの解説がとてもわかりやすかった。

www.club-typhoon.com

 

色々と調べても「日常の美しさが〜」とか、「映画自体が詩のような〜」とか、そういう「感じる」系の感想ばかりで、自分にもそれはわかるけどそれだけでは重要なものを見逃しているようなもやもやした感じがあって、でもこの解説を読むとそのもやもやにすっと筋が通った気がした。このブログを読むと、多くの人が捉えている日常の肯定とは真逆のメッセージ性が込められていることになる。

日常の美しさを感じることはかけがえのない感覚だけど、一方でそれだけでは生き抜くことができない危機も訪れる。それがバスの故障であり、愛犬にばらばらにされた詩のノートなんだろう。「日常を肯定し、素朴に暮らす」というのはこれからの日本のように先細りの未来を生きていく上では必須の能力でもあるし、そういうものを肯定するムードがあるから、多くの人が誤読、というか、「日常は美しい。でも、理想を追い求めろ」というメッセージの「でも」以降をスルーしてしまったのだろうなあ。

 

 


『南瓜とマヨネーズ』予告編

 

それから20分程の休憩を挟んで『南瓜とマヨネーズ』。フリーターで音楽を追い続けるとか、体を売って彼氏を支える女の子とかって、あんまり今っぽくない設定だから、これがどうして今映画化されたのだろう? という疑問を感じてしまって、少し入り込めなかったのだけど。でも、ラストでせいいちが「意味とかないから」ってしきりに言いながらツチダの前で歌う歌は、どれだけ言い訳をしていてもやっぱり意味を持っていて、差し込む光もやわらかくて美しい瞬間だった。なんていうか、叶わなかった道の一番純粋な欠片が迷い込んだみたいな、そういう切なさと、未来の肯定があって。

そしてこれも先ほどの解説を読むと、『パターソン』と二本立てで上映された意味がよくわかる。ツチダは現在(せいいち)の生活に固執し、過去(ハギオ)に足をとられながらも、最後はどちらも手放して未来へと向かっていくのだ。

 

映画館を出ると雨は雪に変わっていた。

このところずっと慌ただしかったけど、ようやくひと段落。金曜はそれまでの慌ただしさのしわ寄せで後回しになっていた作業や、部屋の掃除をした。週明けに向けてやっておきたい仕事はあるけれど、すっかり気が抜けて思うように捗らない。こんな風にだらだらやって、仕事をしたとも休んだとも言えないまま時間だけ過ぎていくのが一番よくないので、仕事は諦めて早々に出かけることにする。

まず渋谷へ行った。恋人が「渋谷はゴミゴミしてて嫌い」というのでデートでも行く機会がなく、自分も住んでいる場所からややアクセスが面倒なこともあり、すっかり縁遠い街になってしまったのだけど、この1ヶ月は珍しく何度か足を運ぶ機会があった。一回は仕事の打ち合わせ、もう一回は恋人と『リバーズ・エッジ』を見に。今日はHMV record shop shibuyaに少し用があって。ぶらぶら渋谷を歩くのがいつぶりかはわからないのだけど、色々と変わっていて驚く。一番驚いたのは、modiのある交差点から見る公園通りの坂の先に「koe」というアパレルブランドがやってるホテルができていたこと。ここから見える景色といえばパルコの看板だったし(「PARCO」がイタリア語で「公園」を意味することから「公園通り」になったらしい。今知った)、閉店してからは何もないのが僕の知っている光景だった。その他は特に変わっていないのだけど、象徴的なその部分だけが変わっていて、ちょっとパラレルワールドに迷い込んだ気分になった。

 

恋人がホワイトデーにトートバッグをプレゼントしてくれて、それがとてもたくさん入って便利。仕事の資料やパソコンを入れてもたっぷり余裕があるし、今日買ったSuperorganismのレコードもばっちり収まった。それでいて、持ったり肩にかけたりしたときにバランスが崩れないのがいい。自分は体が小さいので、大きいカバンを持つとバランスがおかしくなってしまうことがある。でも荷物は多いので、悩んだ挙句いつまでも買えないということも多いのだけど、不思議とこれはしっくり来た。とてもうれしい。

 

夜はテルマー湯へ行ってみた。そこそこ人はいるけど、大浴場自体がかなり広いからなのか、空いているという印象を受ける。サウナに入ろうかと思ったのだけど、かなりぬるめの炭酸泉にずっと浸かっているのが心地よく、それだけでのぼせてしまったのでやめた。リラックスルームで文月悠光『臆病な詩人、街へ出る。』を読み進めて、また風呂に入って、3時間くらいで出た。なんかもっとご飯食べたりとか、遊び倒せばよかったかなと少し思った。休みの充実度、みたいなものを気にしてしまうのも嫌だし、でもだらだら時間を無駄にしているみたいに過ごすのもそれはそれで気持ちが悪い。そういうことを気にしないで生活したいのだけど。

高円寺に戻り、ラーメンを食べて帰宅。特にオチなし。