電話越しに泣く母を、うまく慰めることができなかった。不器用なので髪をセットするのは苦手だけど、今日はちょっとうまくできた。打ち合わせではお仕事をいただき、2つもらった話のうち1つは過去に一度取材をしたことがある人の取材、もう1つも以前から気になっていた企業の取材で、胸が躍った。

フリーランスになって2ヶ月ほどが経ったけれど、4〜5月は主に挨拶をしたり父のことでばたばたしていたりで、あんまりちゃんと仕事ができていなかった。特に今月入ってからは暇な時間も多くて、やばいなーと思っていたのだけど、下旬〜来月にかけては忙しくなりそうだ。

 

打ち合わせから帰ってきてまた仕事をしようと思ったのだが、良い仕事が舞い込んできた割に気分が落ち込んでいて手につかなかった。気圧や、気温差のせいだろうか。田中圭一さんの『うつヌケ』という、うつと付き合いながらも健やかに生きている人たちの話を綴った漫画に気温や気圧が上下する日は気分も激しく落ち込むというエピソードがあって、それを知ってから少し意識してみている。恋人からも「今日は少し落ち込んでます」とラインが来ていた。母は大丈夫だろうか?

 

先週、近所に住む友人が「地元から送られてきた」といってマンゴーを分けてくれて、それが本当においしかった。これまでに食べたものの中でも群を抜いておいしくて、酸味が少なくて甘さが濃く、すじがなくて口当たりがとろんとしていた。

おいしいものを食べると、どうしてか母のことが思い浮かぶ。母にも食べさせてあげたいと思う。そう言うと聞こえはいいけれど、間違いなくそこには罪悪感が混ざっている。決して貧しい家庭だったわけではないのだけど、母は贅沢することを、お金をかけることを極端に嫌っていたから、贅沢は敵だと刷り込まれてしまっているのだろうか。

 

自分だけが遠くに行けること、幸せになることに負い目を感じる。でも欲望には忠実で、手を伸ばすことをやめたりはしない。すごく正しいはずなのに、それをだらしないと思う自分がいる。これは母のせいではないと思うけど、家族の問題が根っこにある気がしている。

 

来週末は父の四十九日だ。新宿の伊勢丹高島屋にでも寄って、上等なマンゴーを買って帰ろうと思う。

今週は月曜の朝からほとんどの人間が経験しないようなハードな体験をしてしまい、そのショックを引きずっていたのだけどとりあえず想像していたような大事にはならなそうでようやく安心した。

今年は後厄でハードボイルドなことが次々起きているのだけど、それは周りの大切な人に何かが起きて、それについて翻弄されることばかり。当事者だけど一番大変な人ではないので支える側にまわるのだが、まあ支えるのもそれはそれできついし、本人のことを考えると弱音も吐けなかったりして相当しんどいこともある。でもどれもぎりぎりのところで最悪の事態にはなっていなくて、ちゃんとお祓い行ったからなのかな、と玄関に飾った木札に手を合わせてみたりする。厄払いに行くべきは自分ではなくまわりの人なのでは?というつっこみは今は置いておきつつ。

 

自分個人のことについては案外順調だ。仕事でミスしたとかはあったけど。。これからでかいのがくるのだろうか。そうなった時にちゃんとしていられる人でありたい。ただ自分が強くあるというだけではなくて、寄りかかれる人がいることを忘れない、という意味で。

 

自分は文章を書くし、つらいことが起きたら(いつか書いてやるからな)と復讐心のようなものを燃やして耐えることができるのだけど、本当に書くかどうかは微妙だと思っている。言葉が、ではなくて、純粋に事実が拡散することがあまりにも大切な人を傷つけてしまいそうだからだ。そんなんでいいのか、と問い返す声はいつだって響いてくる。覚悟が決まっていないだけなのかもしれない。でも、「不幸でなくちゃ面白い文章は書けない」という考え方に能町みね子さんが反旗を翻しているのともどこか重なり合うような感覚で、大切な人を不幸にしてまで書く文章ってなんだよ、と思う。ろ過して、大事なものを守りながらそこで得たこと、泣いたことを伝えられる文が書きたい。甘いかな。

 

昨日で父が亡くなって1ヶ月だった。葬式の日もこんなよく晴れた日だったな、とまるで遠い日のことのように感じる。退屈な夜に酒を飲みながらもうこの世にはいないのか、とふと思って泣けてくることもあるのだけど、もう会えないということへの悲しみよりも「死」というものの得体のしれなさ、無慈悲さにパニクる気持ちが大きい感じ。受けた愛情に比べて自分の心の中で父が占める部分というのは少なかったのだな、と、もう更新されない関係性のことを思う。悔いが残っているというのともまた違っていて、でもこのうっすらとした虚しさとはずっと付き合い続けていくのかもしれない。

 

ブログにあれこれ書きたいのにちゃんと聴き込めてない音楽がいっぱい。映画も先週末に『メッセージ』を見たけど今週はもうそれどころではなかった…

聴いてるのはtofubeats、Yogee New Waves、Lil Yachty、突如リリースされたMajor Lazorなど。フジロックのステージ別ラインナップが発表されて、BjorkとMajor Lazorが被っていて悩ましい。単純にこの2組を比べたら今は断然Major Lazorが見たいんだけど、Bjorkもアルカを連れてくるらしいからなあ…

Lil Yachtyはジャケットが最高にかっこいいのと最近客演で名前をよく見るので聴いているのだが、相変わらず自分はヒップホップについては聴きわける耳を持っていないなーと思う。「好き」「よくわからない」くらいしか判断できない。リリックの意味がわかれば違ってくるんだと思うけど。中断していた英語の勉強またはじめるか…

tofubeatsはこれまでの客演が豪華でカラフルだったメジャー2作品から意識的に転換していて、オートチューンの寂しさと無機質さに残滓のような甘酸っぱさが漂う、青春の終わりと時代の変化がリアルにシンクロしたような作品。彼のファンでこういうものを求めていた人は多いのではないか。「LONELY NIGHTS」がとても好きで、歌い出しの「寒い夜や暗い日々が寂しいだけじゃないって知ってた」は宇多田ヒカルtime will tell」の「泣いたって何も変わらないって言われるけど 誰だってそんなつもりで泣くんじゃないよね」と同じくらい優しく平易に悲しみを肯定していて、励ますのではない方法で聴く人に前を向く力があることを思い出させてくれる。名フレーズだと思う。

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金麦と待ってる

金麦の「幸せの、あいあい皿。今年もお届け。」キャンペーンを頑張っている。金麦1缶につき1枚ついているシールを48枚集めると、応募者全員に2枚セットのお皿が当たるというもの。

「山崎春のパン祭り」はシール24枚で皿1枚なので、キャンペーンとしては順当なのだけど、この「2枚セット」というのがめちゃめちゃ憎い。自社製品の文脈をわかっている。これは一人で集めるものではなく、二人で集めるものなのだ。キリンの「47都道府県の一番搾りキャンペーン」を集めてたけど、妻に言われて半ばしぶしぶ金麦に切り替える夫の姿が見える。冷蔵庫に整列して貼られたピンク色のシールを数える妻の背中が見える。「もう箱で買っちゃえばよくない?」「それじゃつまんないじゃん」などの会話を交わしているのが見える…

 

集めているのはシールではない。共同作業の喜びだ。夫婦じゃなくて、離れて暮らす恋人同士でもいい。僕らもそう。

帰り道のコンビニで金麦を買うとき、恋人のことを思い出す。家に着いて飲みながら、いまなにしてんのかなー、と考える。白いテーブルのふちに雑に貼られていた「47都道府県の一番搾りキャンペーン」のシールは捨てただろうか、今は何枚くらい集まったのだろうか、あんま集まりすぎてても心配だな、そんなことを考えながら、自分もウォルナットのテーブルにシールを貼り付ける。

 

誰かを思い出す瞬間はかけがえがない。恋人はスターウォーズが好きだからお店でグッズを見かけたりすると思わず眺めて思い出すし、多分あっちもあっちで若手バンドの名前を聞いたらあいつは知ってるかな、とかいちいち思うのだろう。好きなものや話したことは生活にあざやかな付箋をつけて、それがどんどん増えていく。

あの青い皿が届いたらどんな料理を作ろうか。サントリーにお金もらってるわけでもないのにキャンペーンに乗せられすぎてバカみたいだけど、バカみたいなのが一番楽しい。たかが2枚の皿でこんなに盛り上がれるのが嬉しい。

星野源『MUSIC VIDEO TOUR 2010-2017』


星野 源 ‐ Music Video Tour 2010-2017【Blu-ray&DVD Trailer】

土曜日の夜、星野源『MUSIC VIDEO TOUR 2010-2017』を恋人の家で鑑賞。

まず、こうしてちゃんと編集・構成されたMV集ってなかったよなーと思う。ちょっとMTVとかSSTVとかがやるアーティスト特番に近いかもしれない。

 

MV集って、だいたいリリースされた順に並んでるだけとかが多い。特典として撮り下ろし映像やメイキングがついていればまだいいほうで、今となってはYouTubeとかで見られる映像がパッケージ化されただけ、というのも珍しくはない。それでも、ファンとしてはパッケージやメニュー画面のデザインとか、そういう細かいところにいちいちテンションが上がったりもするのだけど。要するにコアファン向けなのだ。

最近はMVにめちゃめちゃ凝っているアーティストもいるけど、でもどちらがメインかといわれると音楽だ。それはクオリティではなく、順序の問題として。MVのために音楽を作るのではなく音楽のためにMVを作るので、そういう意味ではどれだけ手をかけていてもMVは派生品ということになる。だから、それをまとめて作品化できるって製作の手間がかからないし、いじわるに言えば「おいしい」商売に思える。

今の星野源なら「おいしい」MV集を出しても全然売れただろうし、あと彼のYouTubeはMVがフルでは見られないようになっている(曲の2コーラス目で星野源が登場し、CDの解説をするのが通例)から、フルでMVがまとめて見られる、というだけで価値があると思う。

でも、『MUSIC VIDEO TOUR 2010-2017』では星野源がMVの裏話とか、当時の心境とかを話す映像が撮り下ろされている。その話を聞きながら「では見てみましょう」という感じでMVが挿入される構成だ。この映像も多分1日とかでだらだらと話しながら撮られたもので、MV本体に比べればそんなに手間はかかってないと思うんだけど、ファンのツボを突いているし、量が多い。時にはイデビアン・クルー主宰の井手茂太MIKIKOといった彼のMVに関わっている人をゲストとして呼び、他では聞くことができないエピソードを披露しつつも、話に熱中して曲振りを本人が忘れてしまっている様子も収められていて。ゆるさを残しながら、その中に星野源の作家としてのこだわりが垣間見える。

先日放送された『おげんさんといっしょ』では「偏愛」が一つのキーワードになっていたけど、まさに星野源を「偏愛」する人々を見据えた作品に仕上がっていた。

 


星野 源 - くせのうた 【MUSIC VIDEO】

ソロファーストアルバム『ばかのうた』のリード曲として作られた「くせのうた」のMVを見ては、「1枚目のアルバム出して終わる予定だった」「とにかく予算がなくて8mmフィルムも必要なぶん買えなかった」などの今では信じられないような、2009年のaikoとのフライデーで「20代の一般男性」と報じられたことの信憑性を裏付けるようなエピソードを披露し、セカンドアルバム収録「日常」のMVでは、「セットが組めてるから多少予算が出てる」だとか、このアルバムの制作時が震災直後だったことなどを話す。あの頃は当たり前だった自分達の生活が簡単に揺らいでしまう、という空気があった。そんな中で震災直前にリリースされた「くだらないの中に」には日常を慈しむ目線があって、それが大勢の人の心に響いたんだよなあ、ということを思い出したり。

続く「フィルム」のMVでは「ゾンビが日常的にいる世界」を描いているけど、ゾンビ役のキャストがたくさん出ていて、スケール感が明らかに大きくなっている。「夢の外へ」ではイデビアンクルーの井手茂太がMVに出演。夏フェスとかで聴いたなあ、懐かしい!と思っていると、隣で見ている恋人も懐かしいと言っている。思えばこの頃はまだこの人と知り合ってすらいなかったんだよなあ。


星野 源 - 夢の外へ 【MUSIC VIDEO & 特典DVD予告編】

収録されたMVは2010年の「くせのうた」から2016年の「恋」まで、全13本(+特典ディスクに2本)。これだけの月日が経てば、生活も時代も変わるだろう。星野源はその年月をファンが振り返るのに、自分も伴走する方法をとった。それはどのアーティストでもできることではないし、する必要もない、それが野暮に感じる人もたくさんいると思うのだけど、星野源という人に関しては、このやり方は大正解だなあと思う。音楽が純粋な音楽的評価とは別に、個人的な色彩を帯びるということを大切にしている人だから。

 

しかしこうして振り返ってみると本人のビジュアル、MVセットの華やかさなど色々変化している感じはあるのだけど、一番変わったなーと感じたのは星野源の声、あるいは歌い方だ。時代が下るにつれて、声をすごく張るようになっている。「SUN」以降はブラックミュージックに接近したことも影響していると思うけど、それが星野自身の立ち位置ともリンクしているように見えるのは間違いではないだろう。「くせのうた」、久しぶりに聴いたけどささやくようなトーンではじまるもんなあ。でも、そのささやきは当時の彼の心境(自分の声が嫌いだった、と語っている)とリンクしていて、自分の声が嫌いな人が、遠慮がちに歌い出す、という構図が作品の繊細な雰囲気を作りだしている。だからその彼が「SUN」「恋」でここまで堂々と歌っているのは、手応えとか、責任感みたいなものに裏打ちされてのことなのかもなあ。それらに裏打ちされないまま歌い続ける星野源がいる世界線があったら行ってみたい気もするけど、“社会現象”になった「恋」の続きも見てみたい。

歌声を追っても、MVのスケール感を見ても、それらについて語る星野源の話を聞いても、今が一番脂の乗っている時期だというのがわかる作品でした。

2017/5/14 D.A.N. ONEMAN TOUR "TEMPEST"@恵比寿リキッドルーム


D.A.N. - SSWB (Official Video)

代官山で一件取材をしたあと、友達とD.A.N.のライブを見た。快晴というには雲があったけれど、その分陽射しが穏やかな日で、リキッドルームまで歩いたので少し汗ばんでいた。ビールを飲みながら開演を待つ。チケットはソールドアウトで、わりと早い段階から客席は埋まっていたけど、今か今かと待っている感じではなく皆ラフな雰囲気。近くにいる男女が、最近良かったアルバムの話をしている。

 

ライブはほとんど定刻ではじまった。1stアルバム『D.A.N.』の1曲目、Zidaneではじまると、流れ込むようにニューEP『TEMPEST』からスティールパンが夏の情景を描き出すSSWBへ。音源ではムードのように漂っていたベースラインが、ライブで聴くとずっと分厚くなっていて、曲全体を完全に支配している。7分強のこの曲でステージを完全に掌握したバンドは、Ghana、Native Dancerと序盤から代表曲を立て続けに披露する。途中にSSWBが挿入されてはいるが、ここまで『D.A.N.』のアタマ3曲を曲順通りに演奏している。まるで彼らのレコーディングとライブの違いを浮かび上がらせるようだ。アレンジは基本的に音源に忠実で、そこに彼らの音作りに対する美学が垣間見えたりもするのだが、ライブだとレコーディング時にミュートした熱量を解放している感じ。耳で聴くよりも体で聴く音楽になっていて、その跳躍はたとえばトロ・イ・モワのライブを見た時と似た印象を覚えた。

中盤はThe xxとも共振する浮遊感を、小林うてなのスティールパンが彩るNavy、『Kid A』を現代の東京にチューニングしたようなDiveなど、アルバム曲を曲順を再構築して披露していく。この日はVJによる演出はなかったのだけど、Diveではちょっとポケモンショックを思い出すような激しいライトの明滅があったりして。リキッドルームでの初ワンマンを喜ぶ短いMCのあと、乾いたリズムが印象的なShadows、ドラマチックな展開がライブにより映えるNow it’s dark、そして10分近い大曲Tempestで本編を終えた。
『TEMPEST』EPの3曲はどれもダウンテンポで絡みつくように濃密だ。『D.A.N.』で見せたポップソングとしての表情は長い演奏時間の中で蕩けて、よりディープでスリリングなニュアンスをバンドにもたらしたと思う。

 

バンドを続けていく上で必要なあらゆるものへの対峙の仕方が透けて見えるライブだった。今日のライブでは1曲終えるごとにヴォーカル・桜井大悟が「ありがとう!」と観客に呼びかけていて、それは時折、クールなテンションに水をさすようにも感じられた。世界観をアーティスティックに貫いたライブも見てみたいと思う半面、MCでも話していた通り、今夜はバンドの一つの到達点としてのリキッドルームに、自分たちが立っている喜びが溢れていたのかもしれない。だとしたらなんていうか、リスナーに対して誠実だなと思う。

「これからもよろしくお願いします」というMCに続いて、アンコールで演奏したのはCurtain。後半に楽器がユニゾンする部分があるんだけど、堂々としていてバンドの未来が見えるようだった。

聴きながら今日のライブを振り返って、ヴォーカル・桜井大悟の歌詞の魅力を再認識。メロディや歌い方はクールに抑制が効いている中で、言葉そのものがグルーヴを生んでフックを作りだしている。Curtainは中盤「三万年も経って/独り身のムーンライト」あたりで想起される情景がロマンチックだし、撥音、促音のビート感が心地よく響く。この辺は、彼ら自身も影響を公言している宇多田ヒカルの言葉遊びにも近いものがあるかも。

バイオリズムと挑戦 草間彌生「わが永遠の魂」国立新美術館

日曜の夕方、国立新美術館草間彌生わが永遠の魂」展へ行った。連休最終日の夕方という、人の少なそうな時間帯を狙って行ったところ、やはり空いていた。今日たまたま国立新美術館の前を通りがかったらチケット売り場には傘をさした人の行列ができていて、あの読みは正解だったと思う。しかし普通の平日でもチケット売り場、会場入り口ともに並ばないと入れないのだから、あらためてその人気の高さがうかがいしれる。

 

展示のメインとなるのは2009年より草間が取り組み続けている連作「わが永遠の魂」。これまでに500点以上描かれた中から、132点を展示している。アクリリックという濃度の高い絵の具を使用した、1.6〜1.9m四方のキャンバスに描かれた作品で、これらが大部屋の壁を埋め尽くすように配置されている(中央には水玉をまとった花のオブジェもあり)。圧倒的な色彩に目を奪われながら順に見ていくと、キャンバスの縁取りや色使いにいくつかのタイプがあることに気づく。作品にはそれぞれタイトルとナンバリング、制作年が書かれていて、ナンバリングはわりとばらばらだったのだけどこの配置はどういう意図があるんだろう。ただ、同じタイプのものは制作年が同じであることが多く、月日まで書かれていたわけではないから確証はないがおそらく同時期に制作されていると思われる。同じモチーフが変奏されながら描かれるのをこうして俯瞰して眺めるのは、草間のバイオリズムが可視化されているようでもある。一つ一つの作品以上に、こうして並べた時に立ち上がる軌跡に意味がある気がしてしまう。

冒頭の挨拶でも、草間は自身の命が永遠ではないと悟ったようなことを書いている。人生や人間愛を賛美してきた草間らしい、魂を賭した作品群であると感じた。

 

大部屋以外では彼女のこれまでの活動を故郷・松本での作品から、世界的な評価を得たニューヨーク時代、精神を病み東京に戻ってきてからの作品など、年代ごとにわけて展示する。どれもエキセントリックでありながら、時代の潮流を常に読んでいた人なんだな、という印象も受ける。執拗なまでに網目を描いた「ネット・ペインティング」は、その反復性からポップアートミニマリズムの先駆とする見方もあるし、映像作品はヒッピー・ムーブメントだ。今となっては当たり前になった商業製品とアーティストのコラボもいち早く着手しているし、近年の作品も、草間の手法はアクリリックによるものだけど、その彩色の鮮烈さと没入感は昨今のデジタルアートとの相似性を感じる。

 

少し残念だったのは、個人的に草間彌生をちゃんと知るきっかけになった80年代後期〜90年代ごろの作品が少なかったこと。この時代は初期と現在の転換期にあって、色彩はビビッドなのに全体の印象は薄暗く、生と死、あるいは愛と憎しみが一番隣り合っているように感じられる。それを知ったのは中野にあるカフェmugsに飾られていた版画だった。昔つきあっていた恋人がその作品と僕の写真を撮ってインスタにアップしてくれていたのだが、別れた後ブロックされたので見ることはできない。久しぶりに行ってみようかな。

うつには運動が良いから走れ、と言われても

GW明けから今日までの2日間、仕事がほとんど手につかなかった。特に今日が厳しく、書きたかった原稿や取材の電話などがまったくできず、今日が締め切りの一番小さなタスクをこなしたくらい。まあそりゃそうか、とも思う。父が亡くなってまだ一週間だし、自分としてはそれなりに満足のいく葬儀をできたとはいえ、疲れや無意識の動揺があるのだろう。

自分はかなり寝つきがいい方なのだけど、葬儀の前後は数時間ごとに目が覚めていたし、足を切断されたり借金取りが家の前に行列をなしていたりといった想像力がなさすぎる王道の悪夢を見ていた。日曜くらいからは逆に眠りは深いのだけどいくら寝ても寝たりなくて、体がだるく頭痛がする。急に暑くなったので体温調節がうまくいかず調子が悪くなってるのか、風邪ぎみなのか、精神的なものなのかいまいち判断がつかない。でも今日デスクにいる間ほぼずっと、胸に精錬されてない鉱物が乗せられているような息詰まる感覚があったので、精神的なものだろうと踏んだ。頭痛やここまでの倦怠感が伴ったことはなかったが、この胸のあたりのしんどさには覚えがある。

 

というわけで、今晩は久しぶりにランニングをした。葬儀の前後も含め、ずっと走ろう走ろうと思っていたのだけど億劫で、昨日も帰りの電車に乗りながら今日こそ走ろうと思っていたのに家に着いたら全然無理。結局3週間くらい空いてしまった。

久しぶりなのと、小雨がぱらついていたので無理せず3.5キロくらい。いつもと違うルートを、今週末のライブの予習も兼ねてD.A.Nの新譜『TEMPEST』を聴きながら走る。大げさな起伏のない洗練されたビートは、時折コンビニがあるくらいであとは街灯と信号くらいしか光っているものがない街道によく似合った。いつもの道とは違うところを走ったのも、発見があってよかったのかもしれない。

書いている今はさっきよりも雨脚が強まっているので、早めに切り上げて正解だった。走り始めた直後はまだ若干頭痛もあったので大丈夫かな、と思ったけれど、走っているうちになくなっていて、胸のしんどさも軽減された気がする。

運動、大事!とあらためて思う。学生時代から体育の成績は悪い方だったし、人とやる運動は未だにまったく好きじゃないけど(最たるものが球技)、ランニングと水泳は一人でできて、考え事をしたり、音楽を聴いたりできるからはじめやすい。文科系向きの運動だと思う。

しかししばらくランニングが習慣づいていた自分でさえ、調子が悪いと簡単に先延ばしにしてしまう。実際にその効用を体感していて、明確に走るべき理由があるのに、走らない言い訳はいくらでも見つかる。「うつには運動が良いから走ろう!」という文章をみるし、実際自分には効いてるからもっともだとも思うんだけど、その発言自体はやはりマッチョというか、そもそもそんな習慣がない人からすればいきなり走ろうとか言われてもハードルが高いし、効果も実感できてないからとても実行には移せないですよ…と思う。まして精神的に不安定な時に走れば解決するとか言われるのは拷問に近い。もうその時には解決するちからすら残ってないのだ。

でも、ランニングは病院のうつ病治療プログラムに取り入れられているところもあるし、やってみる価値はあると思う。なるべく元気な時に一度なり二度なり走って、自分が走れる距離やペースを把握しておくといいです。ランニングは行って帰ってこないといけないので、どのあたりを折り返し地点にするかをちゃんと考えておかねばならず、これが把握できないのは心配性の人間にとってはめちゃめちゃストレスになるので。まあ、自分は別にメンタルケアのためにランニングをはじめたわけではないのだけど、消えたい、死にたい、もういいの感情を回避するためのカードは一枚でも多い方が良いと思うので、備忘録も兼ねて。